男の切れ味(上) 小堺昭三 [#表紙(表紙1.jpg)] 目 次  坂本龍馬  三野村利左衛門  伊藤博文 [#改ページ]     坂本龍馬 [#ここから5字下げ] 歴史を変える底力と世界を相手に事業する発想力をもったケタ違いの男 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ] 〔「とろこい」男〕  土佐男には「いごっそう」、土佐女には「はちきん」が多い。「いごっそう」は異骨相と書き、反骨精神があって損得を抜きにして我を通す男のこと。「はちきん」は気性がはげしいが男には献身的で、よく働くし生活力も旺盛な女性たちを指しており、「はち」とは女の生理を意味する地方もある。  それに南国だから男も女も血の気が多く、激しやすく反権力志向もつよい。のちに板垣退助や中江兆民が自由民権運動を起こして明治政府を批判し、幸徳秋水が無政府主義者となっていったのも反権力志向のあらわれであろう。個性的な宰相になった浜口雄幸と吉田茂もこの地の出身だ。  土佐藩は、武士であっても身分差別が徹底していた。もともと豊臣秀吉に仕えた長宗我部《ちょうそかべ》家の所領だったが、関ヶ原の合戦で徳川家康に弓をひいたがために追放になり、山内一豊が六万石の遠州掛川より移封され、土佐二十四万石の大名に昇格したのである。  そのときからサラリーマン士族にも差別がつけられ、長宗我部家は大企業の山内家に吸収合併された弱体企業みたいなもの。長宗我部系である土着の郷士《ごうし》たちは、山内家の家臣よりも軽んじられ、いくら有能かつ勇敢であっても、すべて平社員なみの下士および足軽にとどめおかれた。出世の道は閉ざされてしまい、禄高も低いため、着ているものも粗末で、生活は質素をきわめざるを得ない。  対照的に、掛川よりついてきた家臣らは総じて管理職クラスの上士であり、どしどし出世してゆくし、街なかで無礼なる郷士を斬りすて御免にするも自由であった。また郷士たちは高知城への登城が許されず、城内へゆけるのは年に一度、正月元旦に藩主のご機嫌を伺うときだけとされてきた。食えない郷士たちは、その郷士株を裕福な町人に売却、さらに身分が低い地下《じげ》浪人になりさがってゆくしかない。  こうした過酷な差別に代々、三百年近く耐えぬいてきた郷士・地下浪人階級の憤懣《ふんまん》とか劣等感とかが、風雲急をつげる幕末になって一挙に噴出した。ときの藩主は十五代目、たいへんな酒豪の山内|豊信《とよしげ》(容堂)である。  坂本家の先祖は、太郎五郎という農民だった。関西から流れてきて土佐国長岡郡|殖田《うえだ》郷|才谷《さいたに》村に住みついた、ということしかわかっていない。勤勉な一族だったらしく五代目が高知城下へ出てきて、「才谷屋」なる酒屋をオープンしている。そして、六代目が郷士株を買って帯刀できる身分になれた。さらに郷士としては三代目の坂本八平の次男として龍馬は、天保の大飢饉があった前年の、天保六年(一八三五)十一月に生まれている。  いずれも「はちきん」である三人の姉がいて、彼女たちに可愛がられた少年時代の龍馬は、甘ったれの泣き虫で活発なところがなく、夜中に寝小便ばかりしていたとの記録がある。こういう愚鈍なのは「とろこい」と呼ばれ、おやじの八平は顔をしかめ、天を仰いで嘆いていたそうだ。  十二歳にして母|幸《こう》を失っている。十四歳になって小栗流の日根野|弁治《べんじ》道場に入門、このころから「とろこい」龍馬が「そそくりもの」に変わってきた。ひょうきん者のことであり、剣士として一家を成すより、商人に近い天賦《てんぷ》があったようにもみえる。 〔自我にめざめる〕  嘉永六年(一八五三)春、卒業証書のごとき「小栗流和兵法事目録」をもらった龍馬は、姉たちに見送られて進学のため江戸へむかい、土佐屋敷が近い京橋の千葉定吉道場に入門した。千葉定吉は北辰《ほくしん》一刀流の千葉周作の実弟。  神田にある周作道場には、過激派の水戸勤王派が出入りしていて風雲急なるものを感じさせたが、定吉道場のほうはまだ無風状態。仕送りはふんだんにやってもらえる身の龍馬は、同年六月にペリー提督が軍艦四隻をひきいて捕鯨漁業中に浦賀に来航、江戸湾まで進出、江戸市中では町民たちが「蒸汽船(上喜撰=お茶の名)たった四はいで夜も眠れず」の避難騒ぎになったときも、 「黒船相手の戦争になればそのときは、夷人の首を打ちとり、手土産にして土佐へ帰ります」  との呑気な手紙を八平に送っている。  長州の吉田松陰は米艦に密航をもとめる行動を起こしたが、龍馬はまだ天下国家、国際情勢などどこ吹く風かの、いわゆるノンポリ学生同然であった。  江戸へ発つときの龍馬に「片時も忠孝を忘れるでないぞ。浪費はつつしめ。女の色香にまどわされるな」の『修行中大意心得』を八平はあたえていたが、そんな父親の戒めも、彼は守っていなかったようだ。  江戸には一年いただけで、安政元年(一八五四)六月に土佐へ帰ってきた。この年の冬、土佐大地震が突発、翌年には八平が五九歳で死亡。そのころ龍馬は瞑想にふける表情で、狩野派の画人河田小龍の門をたたいている。  画家ながら河田は、土佐では屈指のインテリであった。漂流してアメリカを見てきた漁夫の中浜万次郎が、嘉永五年に土佐へもどってきたとき、その万次郎から取材して、ノンフィクション『アメリカ見聞録』(正式名『標巽紀略《ひょうそんきりゃく》』)を一冊にまとめているし、薩摩の兵器工場にある反射炉を見学してきた体験ももっている。 「ペリーは再来航いたしており、幕府に開港を迫っていますが、天下の形勢はいかが相成りましょうや。併せて墨夷《アメリカ》の実状などにつきましても、とくと拝聴つかまつりたい」  それが急に大人びてきた龍馬の、河田家の門扉をたたいた目的であった。  ということは、自我にめざめはじめた証左である。八平の死後、坂本家の家督は長男の権平が継ぎ、龍馬の身分は「郷士御用人・坂本権平が弟」ということになっていて、どこへ行ってもこの「肩書」がつきまとう。もちろん高知城へは元日に藩主のご機嫌伺いに参上するだけ。おそらく重役たちにも名前をおぼえてもらえたことがないはずであり、つねに長男のかげにおかれてほかにやることもなく、彼は虚しかったのだろう。  ならば西洋の知識を身につけ、上下の差別が徹底している藩内での抬頭はあきらめ、どこかへ飛び出していって強烈な生きがいを求めることはできないものか——その可能性を二十歳にして模索しはじめたのだ。現代でいうところの、イチかバチかの脱サラリーマン根性である。  外国軍艦の性能や威力、科学文明について河田が語ってくれたのが、いっそうの刺激となった。  河田小龍は言う。 「現状では科学文明の何たるかを解さない孝明天皇とその公卿一派が『外国船など撃ち払え!』と強がっているが、そんな浅い考えの攘夷よりも、自由開港を提唱する人たちの〈開国論〉に耳を傾けるべき時勢なのだ。  天保九年にはじまった隣の中国での阿片《アヘン》戦争を見ろ。イギリスの新鋭艦は揚子江をさかのぼり、南京をも砲撃した。清朝はアメリカ、フランスの要求を容れて、屈辱的な自由貿易条約を締結せざるを得なかったのだぞ。  嘉永三年から激しさを増した攘夷である〈太平天国の乱〉を見よ。阿片戦争の報復をすべく中国民衆が、青龍刀や槍を手に手に蜂起したけれども、米・英・仏連合軍の砲火によって虫けらのごとく殺戮《さつりく》されているではないか。  清国の如き大国でさえそうなのだから、朝廷が攘夷などと鼻っぱしらの強いポーズをとってみせていても、こんなちっぽけな日本国など三日あれば全滅させられてしまう。これからは西洋科学万能の時代なのだ……」  そのように熱っぽく教授して河田は、こうも強調した。 「龍馬よ、黒船のマストにかかげられている旗を見たか。あれは星条旗と称しているアメリカの国旗だ。日本にはまだシンボルとなる国旗すらないではないか。それでは国家とは言えんのだ」  坂本龍馬は腕を拱《こまね》くばかりであった。  念のため書けば、日章旗が国旗に制定されたのは明治三年(一八七〇)である。 〔悩み多き「ハムレット」〕  幕末のそのころは「藩閥エゴ」がまる出しになっていた。藩士・藩民には「おらが藩の殿様が栄えてくれさえすればいい」のエゴイズムしかなかったのである。  薩摩、長州、その他の各藩もことごとくそうであり、長州人は毛利家のために、薩摩人は島津公のために命を賭けて、黒船来航をきっかけに徳川幕府打倒の革命を起こそうとしていたのである。  三百年前に関ヶ原の合戦に敗退して以来の、徳川政権に対する怨念を、薩摩人と長州人はいま晴らしたいのだ。近代国家の建設とか天皇政治の復活のために、西郷吉之助(隆盛)や桂小五郎(木戸|孝允《たかよし》)らは決起したのではない。八平が龍馬にあたえた『修行中大意心得』にある忠孝の忠も、むろん山内容堂公に対するそれにほかならず、祖国愛より郷土愛が優先していた。  各藩主たちには保身のためのさまざまな思惑や打算があり、とくに山内容堂は外様《とざま》大名ながらこの機に、幕閣に加わって発言権を掌握したがっていた。そのくせ一方では開国派に見せたがっている風見鶏だったため、 「酔えば勤王、醒めれば佐幕の人」  などと揶揄《やゆ》されていた。  酒豪である彼は、大酔しているときは進歩的なことを大言壮語するが、正気にもどった朝には保守派に便乗したがるオポチュニストにすぎないというわけだ。  さて——安政三年(一八五六)夏、二十二歳の龍馬は再び江戸へ出る。そして千葉定吉の道場に所属する再修行者になっている。  ひと足さきに武市半平太(瑞山《ずいざん》)が東下、桃井春蔵道場に寄宿していた。下田港には米駐日総領事のハリスが駐在しており、またフランス艦数十隻が新たに襲来するとの風説が飛びかい、江戸は騒然となりつつあった。社会不安が物価を高騰させてゆく。  先輩郷士の武市瑞山はこのとき二十八歳。土佐藩屈指の剣士であり、主君容堂への忠誠心は厚く、攘夷派の土佐勤王党の結成を構想していた。彼と酒をくみかわしたり、同宿して議論したりしているうちに、龍馬は感化されていった。  瑞山には打ち明けていないが、龍馬にとって二度目のこの江戸遊学は「脱サラリーマン」の決意をかためるための行動であった。だが踏ん切りがつかないまま「瑞山のような生き方もあるんだな」と考えさせられる。兄姉にふりかかる迷惑を案じたりして、まだ脱藩する度胸ができあがっていないのだ。  ただし、一つだけ瑞山に同調できかねる点がある。身分差別で卑しめられながらも、ひたすら、「主君のために生きる」としている武士道……というよりは「藩閥エゴ」がどうにも鼻につくのだ。悲壮ぶる彼のその姿勢が、龍馬には、出世への未練であり、卑屈にさえ見えるのであった。  武市家に事情があって瑞山が一年きりで帰国、その後も龍馬は江戸で暮らし、安政五年正月、北辰一刀流の免許|皆伝《かいでん》をさずかっている。わたしはしかし、坂本龍馬の剣術の腕前には大いに疑問を抱いている。  のちに長州へ行ったとき彼は、萩の有備館において少年剣士と三本試合をしたが、負けてしまっているのだ。しかも、生涯を通じて彼が白刃をまじえたのはわずか二回のみ。  その一回は伏見の「寺田屋」に宿泊中に急襲されたときで、右手を斬られた龍馬はピストルを乱射して辛うじて脱出、薩摩藩邸に逃げこんで助かっている。あとの一回は京都の「近江屋」二階で暗殺されたときだが、抜刀して応戦したものの、刺客の一人も倒すことができず自分が即死しているのだから。  千葉定吉の娘佐那は、やはり北辰一刀流の遣《つか》い手だが、龍馬とは恋仲だったことが定説になっている。九歳年下だった彼女は龍馬を生涯の男にしており、彼が暗殺されたあとも結婚を考えず、文明開化の明治時代を孤独に生き、灸治術で生計を立て、日露戦争後の明治三十九年に五十三歳で歿している。  龍馬は脱藩しての「脱サラリーマン」になれず、瑞山に感化されながらも佐那ゆえに江戸から離れられずで、このころの彼は、胸中に志士として生きるべきか、佐那との恋に生きるべきかの相剋をもつ、悩み多き「ハムレット」になっていた。  西洋文明は日に日に上陸してきている。日本人が見たことも使ったこともない三色のマーブル化粧石鹸、ランプ、ミシンが輸入されるし、横浜では「岩亀楼」という異人専門の遊廓なども開業していて、庶民はどんどん文明を吸収してゆく……自分も時代遅れの人間でいたくはない、とする焦燥感も龍馬にはあった。  龍馬が帰国したのは安政五年秋——幕府の大老井伊直弼によって尊攘派の浪士たちへの残酷な弾圧が開始され「安政の大獄」と恐れられたころである。こうした天下国家の大事には、龍馬はまだ背を向けていたのであり、佐那と別れた理由は定かではない。 〔龍馬脱藩の真意〕  帰国した龍馬は、西洋流砲術家の徳弘孝蔵に接近している。「剣術の腕前より砲術技倆のほうが高く買われる時代がくる。それによって身を立ててみようか」と思いめぐらしたようだ。だから千葉道場の関係で知り合った水戸勤王派の浪士らが危険を犯して、ひそかに土佐国境まで落ちのびてくるが、君子危うきに近寄らずで龍馬は冷たく敬遠している。 「安政の大獄」によって、橋本左内、吉田松陰、梅田|雲浜《うんびん》ら五十余名が獄門、死罪、遠島になった……そのショッキングなニュースが土佐へもはいってくる。弾圧によって幕威を挽回したものの井伊直弼は、水戸と薩摩のテロリストらによって桜田門外で斬殺され、幕府衰亡に逆に拍車をかけることになった。  この事件に刺激されて武市瑞山が、土佐勤王党の旗挙げをやったのは翌文久元年(一八六一)の夏。  山内容堂の信任が絶大な大目付の吉田東洋は、身分差別されている郷士たちからは「土佐藩の井伊直弼」として恨まれており、容堂に開国・公武合体の推進者におなりくださいとすすめていた。こやつはどうでも斬らねばならぬ、というのが瑞山の目的である。  東洋派には後藤象二郎、福岡|孝弟《たかちか》、岩崎弥太郎らがおり、瑞山派には中岡慎太郎、吉村寅太郎、岡田|以蔵《いぞう》らがいるほかに、農民団体である庄屋同盟の支援があった。両派は真っ向から対立、主導権争いは熾烈で、上士も郷士も殺気立っていた。  坂本龍馬はどうしたか。  一応は土佐勤王党に加盟した。だが一カ月後には金二両を借金して「讃州丸亀まで剣術修行に出かけます」との届出を藩庁に正式に提出し、飛び出していってしまう。「そそくりもの」の行動であり、真の目的は何であったのか、彼のなかに何が起こったのか、現代の史家たちによっても、まだこの部分は明確にされていない。  丸亀へ行ったはずの龍馬が長州の萩にあらわれ、久坂|玄瑞《げんずい》を訪ねている。有備館での少年剣士との三本勝負に敗退したのは、このときのエピソードである。  そのころ、江戸城の坂下門では血みどろの決闘が展開されていた。文久二年一月十五日の雪の朝、公武合体のため皇女和宮の降嫁を実現させ孝明天皇の退位を企図しているとの噂がある老中安藤信正を、水戸浪士平山兵介ら六人が襲撃したのだ。  二月末に龍馬は長州より帰国したが、三月にはこんどはいよいよ脱藩者となって、剛刀「吉行」を腰に再び長州へ走った。なぜそのような行動に出るのか、瑞山には理解しがたく、首をかしげて、 「飛潜だれか知るあらん」  と嘆くとともに、少々尻軽な男だとみなしている。  その日から二週間後、瑞山らは吉田東洋暗殺を決行、春雨が降りしぶく夜に討ち果たしている。その首は高知城下の雁切橋のたもとに「私利私欲の巨魁《きょかい》」の斬奸《ざんかん》状をそえて晒《さら》された。下手人は自首して出なかった。  瑞山のみならず龍馬脱藩の真意は、だれにもわかっていない。史家たちはあれこれ仮説をたてて推理しているが、わたしはこのように分析している。  一応は瑞山派に加盟したものの、江戸でもそうであったように龍馬には、視野の狭い瑞山の「藩閥エゴ」まる出しのそれにはついてゆけなかった。むしろ公武合体して、幕府とか朝廷とかが支配するのではない民主国家を形成して自由貿易をやる……吉田東洋の主張をそのように拡大解釈し、共鳴したくなっていたのではないか。その東洋暗殺決行の日近しと見るや、いそいで藩外へ逃亡したのではないだろうか。ナンセンスな暗殺の下手人の一人にされてはたまらぬ……そう思う気持もあったのだろうと。  この時期から龍馬の、インターナショナルな感覚が冴えてゆくのである。 〔勝海舟との出会い〕  脱藩者坂本龍馬は下関に、商社業・海運業を経営する白石正一郎を訪ねた。  久坂玄瑞の紹介であり、その白石家には薩摩の西郷吉之助をはじめ長州の高杉晋作らが出入りし、土佐の中岡慎太郎、吉村寅太郎らもわらじを脱がせてもらったことがある。  白石正一郎から貿易についての基礎を学んでのち、龍馬は九州へ渡り薩摩への入国を企図。河田小龍に教えられていた薩摩藩の実力というものを、しかと自分の眼で確認しておきたくなったのだった。  琉球国を介して薩摩が清国との密貿易をし、藩の経済力と軍事力を増大させている、その近代化政策の実態に注目したのだ。薩摩は、幕府の鎖国政策をあざ笑っており、長州もまた薩摩に追いつき追い越せのファイトを燃やしていた。だが、龍馬の薩摩入国は実現しなかった。龍馬の薩摩への入国の思いが実現したのは、のちに西郷隆盛らとともにお龍をつれて新婚旅行に出かけた時である。  京都では「天誅《てんちゅう》」という名の暗殺と、弾圧とが繰り返されていた。浪士たちのあいだでも思想が分裂して、昨日の友は今日の敵、血で血を洗う内ゲバが起こる。公卿らも離合集散し、「安政の大獄」で功労があった幕吏、目明かしらが浪士団の報復をうけて、むごたらしく私刑された。土佐の人斬り以蔵こと岡田以蔵、薩摩の人斬り新兵衛こと田中新兵衛らが、ニヒルなテロリストとして恐れられたのはこのころだ。  攘夷か、勤王か、佐幕か、はたまた日和見主義で付和雷同するか。各藩主たちも豪商らも、好むと好まざるとにかかわらず、身の処し方を選択しなければならなくなった。三井をはじめとする浪速《なにわ》の鴻池《こうのいけ》や平野屋などの両替商は、どちらの天下になってもいいように両天秤をかけて、佐幕派にも勤王派にも軍資金を調達してやっていた。  九州一巡ののち龍馬は、大坂から京へのぼったが、瑞山一派との接触は極力避けている。瑞山は岡田以蔵らに暗殺指令を発していた。そのような血の臭いがする直情径行の先輩に、龍馬はいっそう距離を感じはじめたのだ。三本木花街の安芸妓と遊んでいる。  夜陰にまぎれて彼は、京から去った。そして、江戸にあらわれたと思ったら、だれもが予想だにし得なかった幕府の、軍艦奉行|竝《なみ》に出世していた勝海舟の門弟に、平然として、なったのである。赤坂氷川に「海舟塾」を開いていた海舟は、龍馬より十三歳年長であった。龍馬は人見知りせず、他人のふところに飛びこんでゆける性格もあり、天衣無縫の田舎者なのだが、自分で自分なりに自己開発してゆく努力家であったことは確かだ。  幕府の長崎海軍伝習所所属の、オランダ製の咸臨《かんりん》丸に海舟が艦長として乗船、アメリカ海軍士官に指揮をとらせて片道三十七日間を要し、サンフランシスコと品川のあいだの往復に成功したのは万延元年(一八六〇)五月。龍馬が徳弘孝蔵から砲術を講義してもらっていたころであり、この壮挙が日本の遠洋航海史の最初だったのは、だれ知らぬものはない。  どのようにして龍馬が海舟に近づき得たのか。千葉定吉道場の息子重太郎とともに「天誅」を加うる刺客として勝邸におもむいたが、海舟に地球儀を見せられて「眼をひらけ、世界は大きいんだ」と一喝された……それがきっかけとなったように一般には定着しているけれども、これも龍馬研究家のあいだでは諸説紛々。いずれにしろ、テロリストとして勝邸へおもむいたというのを、わたしは信じない。なぜならば、血の臭いがする瑞山を敬遠している龍馬だから、殺し屋を請け負うわけがない。 〔「自由人」龍馬の誕生〕  「ハムレット」龍馬はこのころになってようやく、自分の願望が「自由人」になることだと自覚しはじめたのだ。彼は系統だった学問をしてきたわけではなく、有能な人物との出会いによって得た「耳学問」で成長した。剛直なだけの瑞山とは異なり、有能な人材たちの知識と精神を吸収できる柔軟さ、それを応用してゆく発想力が先天的にそなわっていた。河田小龍、白石正一郎、勝海舟、さらには松平|慶永《よしなが》(春嶽)、大久保|忠寛《ただひろ》(一翁)らに会えた結果が、佐幕でも勤王でもない、土佐のためでもない「自由人」龍馬を形成してゆくのだった。  海舟のことを龍馬は「日本第一の人物」と尊敬し、三番目の姉|乙女《おとめ》に宛てた手紙にも、そのように書いている。そして彼は江戸遊学中の土佐郷士らにも、さかんに海舟の偉大さを吹聴して「来たりて入門せよ」とPRしている。老中小笠原|長行《ながみち》が海路で上洛することになったとき、それに同行する軍艦奉行に従って龍馬は、海舟の家来の名目で便乗している。千葉重太郎や土佐郷士の饅頭屋(近藤)長次郎も一緒だ。  長姉|千鶴《ちづ》の子である同じ脱藩者の高松太郎もスカウトして、海舟塾生にしている。ふところにはつねに和綴の手帳を入れていたが、これは龍馬自身でこしらえた毛筆書きの英文和訳の辞書だった。一つでも多く単語を暗記しようとしていたのだ。  海舟のとりなしで容堂が脱藩の罪を許し、龍馬には航海術修業にはげめの藩命があたえられた。文久三年(一八六三)春のことであり、脱藩者はつねに命を狙われるので、海舟が龍馬の身の安全をはかってやったのだ。この年、横浜に設立されたファーブル・ブラント商会が時計の輸入をはじめた。それが市中に出まわる。  だが、世の中の政治は旧態依然としていた。跋扈《ばっこ》する勤王過激派を封じこめるべく幕府は、京都に守護職をおく強行手段に出た。その任に当たったのが幕閣がもっとも信頼する会津藩主の松平|容保《かたもり》。配下になったのが多摩郷士らの浪人集団——近藤勇、土方歳三《ひじかたとしぞう》が指揮する新撰組。かれらは京都三条の旅館「池田屋」を祇園祭の夜に急襲、会合していた長州、土佐、因州、肥後の尊攘派志士七名を殺害し、二十三名を捕縛したことで、一躍その名をとどろかせた。文久〜元治年間の京都を中心とする政局は、幕府・朝廷、それに尊攘派志士らが入り乱れ、互いの覇権を争って不安定そのものであった。  こうした情勢下、便乗主義者の容堂は豹変し、武市瑞山ら土佐勤王党に弾圧を加えはじめた。彼はあくまでもワンマンであり、吉田東洋暗殺の下手人探索をも命令し、京都にいる瑞山らに帰国をうながした。  帰国すれば即座に逮捕され、刑場の露と消えねばならぬと察知した中岡慎太郎らは、主君の命令にも従わなかったが、至誠の士である「いごっそう」の瑞山はそむかなかった。一命を投げうってでも主君に諫言《かんげん》する、どこまでも古いタイプの武士だったのである。 〔徹底したコスモポリタン〕  龍馬のほうは新時代人になっていった。  勝海舟に外国奉行の大久保忠寛を紹介してもらい、彼の高説をも謹聴していた。龍馬は「徳川家にすぐるものあり、大久保一翁と勝安房守」と、その開明思想に感動したくらいで、大久保は維新後に東京府知事になっている。  大久保もまた「幕府政治の時代は終わる」とみて、鎖国政策の非現実性を説く開明派だった。近い将来に国家のための海軍を創設すべきで、いまのうちから海軍操練所を設け、佐幕派の藩士だろうと勤王派の町人だろうとかまわぬ、海員を呉越同舟で育成したいという点で、大いに海舟に共鳴していた。  龍馬はよろこび勇んで、海舟と大久保の使い走りをやった。越前福井に松平春嶽を訪ねた。海舟が神戸につくろうとしている海軍操練所の費用を補助してもらうのが目的で、春嶽は龍馬に五千両ほど提供すると約束している。この越前藩への使いは、龍馬の眼をさらに開かれたものにした。横井|小楠《しょうなん》や由利|公正《きみまさ》との出会いも、この時であろう。横井は春嶽の政治顧問であり、海舟とは顔馴染みだった。その横井は対外的危機が深刻化するなかにあって、国内権力の統一と開国とを考える人物だったからである。  このように勝海舟と「自由人」龍馬が神戸海軍操練所の設立に情熱を燃やしていた文久三年九月、容堂命令にそむかず帰国した瑞山は、ただちに投獄されてしまった。彼の忠誠心は主君に通ぜず、これで土佐勤王党は壊滅。龍馬は海舟の海軍塾塾頭に推挙され、幕府が貸しあたえた観光丸、黒龍丸の二隻で塾生らの航海訓練にはげんだ。  鹿児島ではイギリス艦七隻を砲撃する薩英戦争が勃発したが、いまの龍馬には右も左もなかった。天皇だろうと幕府だろうと色分けせず、異人だろうと親しくして海軍創設に必要とあらばだれでも利用する、徹底したコスモポリタンになっていたのだ。  だから龍馬に対して「航海術の話を聞きたい、至急帰国せよ」の容堂命令が届いたときも、これは罠だと一笑に付し、そのまま再度の脱藩者になった。土佐藩内のゴタゴタなどコップの中の嵐にすぎないのである。  元治元年(一八六四)新春、三十歳の龍馬は、海舟に随伴して長崎にあらわれた。  前年の文久三年五月、龍馬が越前に松平春嶽を訪ねていたころ、長州の関門海峡では攘夷が決行され、つぎつぎとアメリカ艦、フランス艦、オランダ艦を砲撃した。その報復作戦を敢行すべく米・英・仏・蘭の四カ国の艦船が長崎で合流、連合艦隊を編成する……その情報をキャッチした幕府は、勝海舟を派遣して「暫時中止してほしい」と申し入れさせたのだ。  二カ月あまり長崎に滞在して海舟は、四カ国の艦長と個別会談をおこない、誠意を示してなだめた。攻撃延期を艦長たちが了承、海舟は大役を果たした。  龍馬のほうは滞在中に外国艦の装備のすばらしさ、海員たちの生活などをじっくり見学できたことに満悦した。羽織袴姿で腰に大小を差していながら彼は、異人をまねてブーツをはくようになった。そのスタイルがまた「そそくりもの」に見えるのだが、頭のなかは忙しく働いていた。 「外国との自由貿易をやる場合、どのような海運会社と商社を設立すればよいか」  オランダ人の出島の商館に通いながら、そのことについても研究した。西洋料理にも関心があった。アメリカの選挙制度にも興味があった。インドから東南アジア、中国へと進出してきているイギリス政府の、東インド会社組織についても勉強した。この東インド会社組織をのちに、日本の満洲経営にとり入れたのが後藤新平(初代満鉄総裁)である。  龍馬がブーツをはくのは、異人の商社マンたちに好意をもたれたいからであり、過激派浪士たちのエネルギーを北海道開拓と、中国との通商貿易にむける奇想天外な構想もやってみるのだった。おそらく龍馬自身はもうこの時点で、自分が北辰一刀流免許皆伝の武士であることさえ、完全に忘却していたのではないだろうか。  長崎からの帰路、海舟と別行動をとって龍馬は京都へ潜入している。そして、浪士たちのアジトの家政婦として雇われていた未亡人の養女お龍《りょう》と知り合う。六歳年下の彼女のことを龍馬自身は「まことに妙な女」だと表現しているが、やがて二人は婚約する。  このころから龍馬は口ぐせのように、 「なかなか滅多に死なうぞ、死なうぞ」  と操練所の塾生たちにも言っている。  お龍を好きになったから命が惜しい、という意味ではない。勤王だ、佐幕だ、とわめき合って暗殺したりされたりするのは愚の骨頂。とくに狂犬の群れみたいな新撰組にナマスにされる野郎は阿呆だ、とみているのだった。  だからだろうか、彼はじつに巧妙かつ機敏に、危険が待ちうけている場所と日時を、完全に予知しているかのごとく回避して生きてゆく。前述の池田屋襲撃事件が起こったときもそうだし「蛤《はまぐり》御門の変」で長州勢が薩摩勢に撃破され、久坂玄瑞らが自害したさいにも、龍馬は遠く安全地帯の江戸にいるのである。そして、兵乱が鎮静したころ京都へ舞いもどり、お龍とデートしている。 〔目標達成への「水平思考」〕  龍馬の、京都薩摩藩邸にいた西郷吉之助への接触がはじまる。当時、西郷は、京都の薩摩藩邸を一人で動かすまでになっていた。西郷との面会は海舟と相談したうえでのことで、薩摩藩は利用価値が高いためだ。神戸へ戻ると龍馬は、海舟に、このように西郷の人物評をしてみせた。 「どうもつかみがたい人物です。小さく叩けば小さく響き、大きく叩けば大きく響く……とでも申しあげましょうか」  そこで海舟も、西郷に会いにゆく。海舟自身でさぐりを入れようというのであり、こうして龍馬との二人三脚の奔走をつづけるが、不運にも勝に挫折のときがくる。  海軍操練所の塾生たちのなかに池田屋謀議に参加していた浪士や、「蛤御門の変」で長州勢に味方したものがおり、「操練所は浪士らの隠れ家なり」と断定した幕府が、その責任を勝海舟にとらせたのだ。彼は江戸に召還され、海軍奉行職を剥奪されて失脚。以後、龍馬とは二度と会うことがない。  海舟というパトロンを失った龍馬は、西郷吉之助と桂小五郎を説得して、神出鬼没、薩長同盟のシナリオをこしらえはじめた。薩長に天下をとらせることで当面は統一国家体制にもってゆき、世界へ出てゆける海運国にしたいのだった。下関の白石正一郎が協力した。  神戸海軍操練所は閉鎖されたため、塾生たちをひきつれて龍馬は長崎へ移動した。郊外の亀山にその居を構え、薩摩藩をスポンサーにして「亀山社中」と命名、小なりといえども社長となって実業活動を開始した。まず薩摩藩が長崎で購入した汽船ユニオン号を、鹿児島湾へ回漕する仕事をもらい、海員たちのサラリーは士族も平民も一率の三両二分とした。  自分たちは「自由人」なのだから上下の貴賎をつけた既往のタテ社会を否定し、平等主義のヨコ社会をつくりたかったのであり、のちに外務大臣となって名をなす紀州藩士の陸奥《むつ》宗光もこの一員だった。班長を選ぶ場合も、龍馬はアメリカの選挙制度を応用した。  高杉晋作がほしがっている新式小銃四千三百挺、中古品小銃三千挺をイギリスの商人グラバーより購入、龍馬は薩摩船胡蝶丸で密輸してやった。長州側では伊藤博文、井上|馨《かおる》らがその任務に当たった。グラバーはのちに岩崎弥太郎に協力し、三菱造船所を長崎に建設している。  胡蝶丸に乗っていたそのころ——慶応元年(一八六五)五月に武市瑞山が切腹、岡田以蔵が打首になった悲報を龍馬は聞くが、かれらの死に消沈してはいられなかった。いまは「亀山社中」の発展に全力投球しているからである。  このように東奔西走する龍馬をみていると、彼自身は西郷や桂のような政治家・軍人とひと味ちがっていたことがわかる。薩摩の若手武士たちの「精忠組」をうまく操って、島津久光の側近にのしあがった大久保利通のような策謀家でもない。やはり彼は国事に奔走する西郷・桂・大久保らの名参謀であり、アイディアマンだったとみるべきだろう。その才こそが坂本龍馬の真骨頂であり、薩摩のユニオン号を三万七千両で長州に譲渡させたのも、セールスマンとしての腕もある彼の大きな仕事であった。  ユニオン号は「亀山社中」が動かし、平時は海運業にはげみ、薩摩と長州に攻撃しかけてくる敵があれば、外国艦と同様に武装して戦艦となる。そうした使用権をも龍馬は確保した。  事実、慶応二年六月の第二次長州征伐のさいは、門司側の幕府軍に対して艦砲射撃をあびせて痛打し、高杉晋作が指揮する奇兵隊の、関門海峡を渡っての敵前上陸作戦を援護している。そして「亀山社中」は土佐海援隊へと変身してゆくのである。 〔日本最初の企業家〕  坂本龍馬が後藤象二郎と長崎で会ったのは、パリ万国博覧会に幕府が日本式茶店を出させ、芸妓三人をコンパニオンにして評判になっていた慶応三年二月末。ユニオン号の使用権が期限切れになり、持ち船のない龍馬らは失業し、陸にあがった河童同然になっていたときである。  後藤は山内容堂のお気に入りで、土佐藩が経営する商社「開成館」のために、中江兆民や岩崎弥太郎らをつれて長崎にきていた。明治になると後藤は政商に変身して「蓬莱社」を創業、中江は自由民権運動に走り、岩崎は大隈重信をバックに郵便汽船三菱会社を経営し、三菱財閥を築いてゆく。  岩崎はこの長崎には、藩命で通商事務を学びにきていた。龍馬より一歳年上だが、ビジネスマンとしての彼の才能に兄事する気持があって『公用日記』『崎陽暦』などに龍馬のことを記述している。  後藤は吉田東洋の甥である。武市瑞山が切腹させられたのは東洋暗殺の元凶としてであり、土佐勤王党の残党である龍馬としては、瑞山の無念の恨みをはらすべく、後藤や岩崎に斬りかかってもいいわけだ。「亀山社中」には「自分に殺《や》らせてくれ!」と、おっとり刀で飛び出してゆこうとする血気のものもいる。だが龍馬はかれらを制し、すでに瑞山のことは解決済みであるかのごとく、後藤に招待されて和気あいあいで盃をかわした。後藤もまた腹芸をみせて、将来の日本経済の動向について語るばかりだった。 「おんし(お主)、この機会にわが藩のために、大海軍を組織してくれぬか」  そうも後藤が誘った。  龍馬は快諾した。こんどは土佐藩をスポンサーにしようという魂胆だった。右も左もあるものか、利用されながらとことん利用してやろうの根性であり、これが海援隊のスタートになる。保有船も資本金もゼロ、しかし海運会社を営んだ日本最初の企業家となるのである。  余談ながら、大正初期の第一次世界大戦がはじまる直前、三井物産に辞表を提出した内田信也は、退職金を資本に神戸に内田汽船会社を設立。四五〇〇トンの貨物船をチャーターしてアメリカからヨーロッパヘの海運業をはじめたのだが、これが世界大戦勃発で大儲けし、さらにチャーター船をふやしていって、ついには船成金になった。保有船や資本金がゼロでも、海運業界ではこうなることもあるのだ。  龍馬が土佐海援隊のためにチャーターした汽船は、一航海ごとに五百両を支払う契約の、大洲《おおす》藩所有の「いろは丸」。隊士は、龍馬をふくめて約二十名。「亀山社中」法度を活かしていて「脱藩者、海外開拓に志ある者」ならばだれでも平等に歓迎した。土佐郷士、越前藩士、紀州藩士、十津川郷士、材木商や茶商の手代、庄屋の息子、医学生など構成メンバーは雑多であった。土佐藩からのサラリーは支給されず、経営は独立採算制とした。土佐藩は「出崎《しゅつき》官」と称する監督官を一名派遣してきた。  だが、思いがけぬ事故が発生する。脱藩の罪を赦免されて龍馬が海援隊長になり、「いろは丸」を賃借してまもなくの慶応三年四月二十三日、衝突されて同船は沈没してしまうのだった。  ところは瀬戸内海の讃州沖。長崎で積荷した銃器弾薬を大坂へ運送中、紀州藩の「光明丸」が脇腹に追突したのだ。「当方に責任なし。航海術が幼稚だったそちらがわるいのだ」で逃げる紀州藩を相手に、「出崎官」とともに龍馬は土佐藩の武力をバックに討幕をほのめかしつつ賠償金を要求し、さらには外国の習慣、公論に拠《よ》ろうと海事審判にまでもち込もうとした。海運業が盛んになれば、こういうトラブルは毎日でも起こるようになる。そのときのための判例を、龍馬は海運業界に残しておいてやろうという気持にもなったのだ。しかし煩雑な仕事である。  長崎においてその要求交渉を繰り返すうちにも、天下の形勢は日々変転していた。これより三十三歳の龍馬は、暗殺されるまでの半年間を、まるで一分刻みの忙しさで生きてゆくことになる。自分の死が近づきつつあるのを予知していたかのようにだ。  徳川親藩の一つである紀州藩だが、賠償金問題が薩長土の討幕の材料にされるのを恐れて、ついに八万両ほど支払うことを約束せざるを得なくなった。うち四万両は「いろは丸」の船主である大洲藩が受けとるのだ。  これが解決すると坂本龍馬は、後藤象二郎と大坂へむかっている。龍馬の有名な建白書である「船中八策」は、この船上で構想された。その骨子は幕府に独裁権を放棄させ、天皇を名目上の支配者となし、徳川家を議長とする大名会議が政治権力をにぎる封建連邦国家にしようというのである。  平和裡の政権交代を理想とするこの建白書が「大政奉還」「王政復古」、さらには明治元年(一八六八)の「五箇条の御誓文」の原型になった……と多くの史家たちは断定している。坂本龍馬は、統一国家をつくるための名参謀にもなったわけだ。 〔妥協の産物「船中八策」〕  薩摩、長州、土佐、広島ら各藩代表の大政奉還建白書に屈した徳川慶喜が、奉還上表を朝廷に提出したのは同年十月十四日。日和見《ひよりみ》主義だった他藩の多くも奉還に賛同、ここに三百年の幕府政治は終止符をうったのだが、怨念と「藩閥エゴ」を捨てぬ薩長が、恭順する慶喜を無視し、官軍と称して討幕のための軍事行動に出た。西郷・大久保・桂らの態度は冷たく、平和裡の政権交代を画策した龍馬は裏切られたのである。 「錦の御旗」をかかげてかれらは江戸城をめざしてゆく。時勢がここまでくればもう龍馬の発想力も才覚も必要ではない。彼の存在価値がなくなってきたのだった。 「龍馬はなぜ、もっと異なった船中八策を構想しなかったのか。彼独自のものがあったはずである」  そうした疑問と不満をいだく研究家たちもいる。国民主体の構想ではないからである。  これからの日本は、天皇を中心において大名たちが合議し、豪商や豪農たちに経済援助させて政治をおこなってゆくというもので、要するに国家の実権を握る中心的存在が、幕府から天皇に代わったというにすぎない。 「勝海舟や河田小龍からアメリカを学んだ龍馬には、民衆の選挙による大統領制度を主張してほしかった。そうするのが近代国家になる早道だ、ということを彼は知っていたはずである」  と、その点を惜しんでいるのだ。  わたしも同感だが、しかし当時としては、 「えいじゃないか加茂川の、水に流せばえいじゃないか 「よいじゃないかえ、あの隅田川、花にも月にも雪見にも  と関西でも関東でも庶民が唄って騒ぎまわり、そうしたデモンストレーションを見ている龍馬としては、とりあえず現実的にならざるを得なかったのだろう。歌謡研究家の藤沢衛彦の名著『流行歌百年史』によれば、この「ええじゃないか」が流行しはじめたのは、 「衆愚は折から高騰した物価も、幕府の秕政《ひせい》(悪政)に代わる、天子の御親裁によって世態一変、生活に安堵の道が開けるものと堅く信じて疑わなかったほど、勤王派に信頼していた」  からだという。とにかく理屈などどうでもよいのである。世直ししてほしいのである。三百年の長きにわたった徳川幕府さえ倒壊すれば「生活に安堵の道が開ける」と庶民たちは単純に信じこんでいたのだった。  まずはそうした現実をこしらえてやることが先決だと、龍馬は妥協して「船中八策」を構想したとも考察される。だから彼は「新政府綱領」を起稿したさいにも、政権担当メンバーに自分の名を加えていない。自分の理想とする国家とはほど遠いものになる、と予測したからではないだろうか。現在のおれは海運事業の拡大に専念するのみ、と考えたのだろう。  だが、龍馬の命運はここで尽きた。  龍馬暗殺は、慶応三年十一月十五日夜である。京都は三条河原町通りの醤油屋「近江屋」の二階、龍馬はここを隠れ家にしていた。のちに「五箇条の御誓文」を起草した福井藩の由利|公正《きみまさ》と面談して帰ってきてからは、風邪をひいて寝たり起きたりしていたのだ。  当夜は土佐陸援隊隊長になっている中岡慎太郎が訪ねてきたので、龍馬は鼻水をすすりながら密談。ところが、すでに幕府見廻組がこのアジトをつきとめていたらしく、三人のプロの殺し屋が奇襲したのだった。愛用のピストルを手にする間もなく、龍馬は斬り伏せられて即死。中岡のほうは二日間ほど息はあったが、やはり絶命した。  下手人についても諸説がある。のちに箱館戦争で投降した旗本の今井信郎が、「自分たち京都見廻組が斬った」と自供しており、長いあいだ見廻組犯人説が支配的だったが、「いや、薩摩藩がさしむけた刺客だろう」と見る研究家もあらわれた。「土佐藩の後藤象二郎が、いろは丸賠償金ほしさに指令したのでは?」と推理する人もある。  武市瑞山を裏切った恰好になっているので「凶刀をふるったのは土佐勤王党の残党」と唱える人があるかと思えば、「もと新撰組隊士だった伊東|甲子太郎《きねたろう》にちがいない」と論証する史家もいるが、いずれにしろ、旧態依然の「政治」に殺されてしまったのであり、犯人探しはわたし自身にはさして興味がない。三十三歳のあの時点で死んだからこそ、龍馬は今日も生きている歴史上の人物になり得たのである。最大のポイントは後世に、坂本龍馬のインターナショナルな感覚がどのように活《い》かされたかであろう。  前述のごとく薩摩と長州は、完全に龍馬を裏切って討幕の火ぶたを切った。そして、革命のための犠牲者になった多くの無名の志士たちと同様、龍馬もその一人にすぎなかったかのごとくみなし、明治維新政府を樹立してからは天皇を仰々しく神格化し、現人神《あらひとがみ》にまつりあげておいて「軍人勅諭」による忠誠を国民に強制し、攘夷精神を活かした軍国主義への道をあゆみはじめる。その結果が日清、日露、シベリア出兵、さらには太平洋戦争の未曽有の悲劇を迎えることになってゆくのだった。明治元勲とあがめられたかれらの国家経営は、その限りにおいて誤っていたのであり、幕府の開国政策が実現して横井小楠、松平春嶽、勝海舟、坂本龍馬らが活躍していたほうが、よりよき近代国家が形成されたのではないだろうか……わたしは、そう思うことさえある。 〔龍馬の発想を活かした岩崎弥太郎〕 「亀山社中」時代の龍馬のアイディアを、もっとも活用したのは、その政商ぶりを指弾されながらも、経済界を牛耳《ぎゅうじ》る三菱財閥を築きあげていった岩崎弥太郎だ。陰ながら龍馬をもっとも理解していたのも彼である。  彼は土佐国井口村の地下《じげ》浪人の子。通商事務を勉強していた長崎時代、龍馬をよく観察しておいて土佐藩大坂留守居役になり、藩船をまかされたのをチャンスに「九十九《つくも》商会」をおこして海運業に着手。それは、「亀山社中」と土佐海援隊組織をミックスしたようなものであり、実弟の弥之助が協力した。  明治四年(一八七一)の廃藩置県のさいには、土佐藩船を買いとって新たに大坂で三菱商会を創業、同七年の佐賀の乱では政府軍の兵員、武器、兵糧の海上輸送をひきうけて巨利をつかみ、本店を大坂から東京へ移した。  また同じ年、台湾征討のための政府の御用船を託されて、三千六百の兵と武器、弾薬を送る戦地回漕に従事したが、そればかりではない。この出兵が終わると船を上海《シャンハイ》航路と近海航路にまわし、戦時輸送力補充のためと称して政府が外国より汽船十三隻を購入すると、三菱商会はその船団をも預かり、龍馬が薩摩のユニオン号の使用権を確保したのと同じことをやっている。  形式上は政府よりの委託になっているが、事実はタダ同然でもらったようなものだし、いくら稼いでもいいわけだ。中国との貿易が盛んになるにつれ、上海航路はドル箱航路とうらやましがられるまでになった。 「岩崎弥太郎はひどい野郎だ。政府高官の大隈重信と結託して、国民の血税で買った汽船を私物化している!」  と叫ぶ板垣退助、中江兆民ら自由民権運動の同志の声など、どこ吹く風かであった。  明治十年にはまたしても、大儲けができる西南戦争が突発してくれた。征韓論に敗れて鹿児島へ帰ってしまった西郷吉之助が葬られる番である。彼もまた龍馬と同様の無冠の「自由人」になったがため、政治組織を失って「政治」に抹殺されるのだった。  再び政府は、軍事輸送従事を三菱会社に命じた。だが九州まで五万の大軍を急送するには船舶不足であり、とても短期間ではやれませんと渋る三菱のために、 「これで一日もはやく船を買うてこい」  と政府は八隻分の、八十万ドルを貸与した。三菱は政府の足もとをみて渋ってみせたのであり、笑いが止まらない。こうして政府を最大限に利用し、労せずして保有船舶をふやし、前述のごとくグラバーに協力してもらって三菱造船所も建設し、やがて三井財閥と経済界を二分する勢力になってゆくのだった。  西南戦争では三井財閥も儲けていて、 「西南戦争はまるで福の神が飛びこんできたようなものでした。あのときは三井物産が十分の六、大倉組と藤田組がそれぞれ十分の二の割で陸軍の御用を一手に承わったので、三井の純利益は一カ年五十万円。なにしろ幇間の祝儀が一朱(六銭五厘五毛)、一流芸者の花代が一両(当時は一両が一円)か二両という時代の五十万円だから大したものです」  と、当時の三井物産の売買方をやっていた馬越恭平(のちの日本麦酒社長)が書き残している。  もし坂本龍馬が暗殺されず、明治まで生きていたら、彼こそがこのようなビジネスをやって、日本経済界の雄となる坂本財閥を築いただろう……そう思うのはわたし一人ではあるまい。  余計なことだが、龍馬の妻のお龍は、商人と再婚したものの横須賀で、佐那と奇しくも同じ明治三十九年に、貧窮のうちに生涯を閉じている。五十四歳であった。 [#改ページ]     三野村利左衛門《みのむらりざえもん》 [#ここから5字下げ] 無学でありながら大転換期を乗り切り「三井」を飛躍させた才覚をもつ男 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ] 〔正体不明の小商人《こあきんど》〕  三野村利左衛門は正体不明の、江戸市中を駆けずりまわっていた無学者の、一介の小商人であった。  こんな男が明治維新時の大転換期にあった富商三井家の、起死回生のヒーローになったというのだから驚く。彼がいなかったら明治・大正・昭和の日本経済を牛耳ってきた三井財閥は、この世に存在しなかったかもしれないのである。  利左衛門のことを語るにはまず、恩人だった小栗上野介|忠順《ただまさ》を登場させる必要がある。  小栗は江戸幕府末期の有能無比の政治家である。万延元年(一八六〇)、三十四歳で幕府の遣米使節の一員として差遣され、帰りにはアフリカの喜望峰をまわり、東南アジアの植民地を視察してきた。  帰国後はただちに外国奉行に任命され、ロシア海兵が無断上陸してきた「対馬事件」の解決に失敗して勘定奉行に転じ、海外で得てきた財政経済の新知識を駆使して、フランスと結んで兵庫商社を設立。横須賀造船所を建設するなどの殖産事業もおこし、陸軍奉行|竝《なみ》も兼務して陸海軍の近代化と充実をはかった。  わずかに残る『稿本三井家史料』によれば、三野村利左衛門は、勘定奉行のころの小栗の、雇|仲間《ちゅうげん》になっていた時期がある。幼名は不明。実父は関口松三郎という出羽庄内藩の下級武士だったが、朋輩に憎まれるようなことをしたため出奔、木村姓を名のって浪人しながら諸国を流浪。九州の宮崎で死亡している。  文政四年(一八二一)生まれのその子利左衛門がまた、浮浪児同然で十四歳のときに京都に現われ、天保十年、十九歳で北陸路をめぐって江戸に入り、深川の干鰯《ほしいわし》問屋「丸家」に住み込み奉公したことになっている。  このへんの経歴については彼自身、三井組の実力者になってからも多くを語りたがらなかったという。「丸家」での勤めが実直だったため、それに才覚があったので、世話する人がいて駿河台にある小栗上野介邸の雇仲間になったのだ。この幸運が三井家へとつながってゆくことになろうとは、神のみぞ知るであった。当時の名も不詳。  小栗家での勤務にもかげひなたなく、神田三河町で細々と油や砂糖を販売していた「紀ノ国屋」の美野川利八に気に入られ、弘化二年(一八四五)にそこの娘「なか」の入婿になり、利八を襲名した。二十五歳であった。  彼は女房なかがこしらえる金平糖を、天秤棒でかついで行商してまわった。半纏《はんてん》にももひき姿ながら、無学者にしては機を見るに敏であった。行商で蓄えた小金を元手に嘉永六年(一八五三)ごろ、小石川伝通院前の伊勢屋嘉右衛門から権利を買って、小商人相手の銭両替商になった。ちょうどペリーが浦賀に来航、黒船騒ぎが起こっていたころだ。 〔無学者の嗅覚〕  暇さえあると彼は小栗邸に出入りした。  自分より六歳若いお殿様がある日、「天保小判一両が洋銀との交換比率から、万延小判三両一分二朱と換価する布令を出すことになった」と話しているのを小耳にはさんだ。天保小判をもっていれば三倍強の儲けになる、と暗算した利八は、貴重な情報を入手したとばかり天保小判を一両一分で買いあさった。  資金がなくなるとそれら天保小判を、葭《よし》町の「よし屋」という両替商に担保にして入れ、さらに買い集めた。「よし屋」の主人の林留右衛門が三井家の手代だった関係で、利八は買い集めた小判を、幕府や諸大名の御用金達を担当する本両替の三井両替店に二両一分で売り込んだのである。  三井両替店の大番頭の斎藤専蔵は、留右衛門とは義兄弟だった。「おもしろい男だな」と二人は利八の「早耳」に感心して以後、三井への出入りを許し、「紀ノ利」とよんでは彼の情報を重宝がった。  同時に、その博識に舌を巻いた。海外の経済事情やら経営理論やらを、平仮名しか読めぬくせに利八は、いつのまにやら海外を見聞している小栗から貪欲に吸収し尽しているのだった。  こんなエピソードがある。  明治五年九月十二日、新橋・横浜間の鉄道開通式がおこなわれ、新橋駅会場には明治天皇も臨席した。三井組総頭取の八郎右衛門高福(八代目)が東京市民を代表して祝辞を読むことになっていたが、病気のため、名代の利左衛門が代読しなければならなくなった。  彼は祝文の漢字にはことごとく振仮名をつけてもらい、正面の天皇の台下まですすみ出て奉読しはじめたが、声に出したのは二行目まで。あとはいかにも声をはりあげて読んでいるかのごとく、口をうごかして演技しているだけであった。来賓らが怪訝《けげん》な顔になる。  見物する四周の民衆がガヤガヤ私語する。マイクがない当時だから、大声を出して読んでも聴こえはしない。下手に読みちがえたりトチッたりするよりは、そのほうがいいと思ったのだ。読みおえたふりをすると、とにかく拍手が起こった。悠々と彼はひきさがった。  社にもどると社員たちが、いかがでしたかと心配するのに、 「弁慶をやったんだよ。安宅の関で用がたりたんだ。われながらよくできたよ」  当人はけろりとしている。むろん、安宅の関とは歌舞伎の「勧進帳」のことである。文字を知らなくとも彼は、事業はどうやるべきかの本筋を知悉《ちしつ》しているのだった。 〔三井の密命〕  前出の斎藤専蔵が、脇両替商として三井両替店に出入りする「紀ノ利」こと紀ノ国屋利八を、大元方(のちの三井合名会社)の三郎助高喜に紹介したのは、慶応二年(一八六六)十月のことである。「勘定奉行小栗上野介さまに、幕府への貸付金御用の減額運動をしてほしい」というのが三井の密命だった。  三井にかぎらず明治革命の嵐は、どの富商たちにとっても迷惑千万であった。黒船来航以後、勤皇派対佐幕派の血で血を洗う武力抗争がエスカレートしていって、幕府浪士隊が暴徒と化し、攘夷先鋒と称しては江戸市中の富豪たちから金品を略奪。武家相手の商人は理由もなく闇討ちに遭い、大阪市中では貧しい民衆の、「私腹をこやす貿易商人、両替商らに天誅《てんちゅう》をくわえよ。町人よ蜂起せよ!」の不気味な貼り紙がなされるため、襲撃をおそれる商人らも街々に、許しを乞う貼り紙を、番頭や手代らに貼らせたものだ。これは今日でいうところの、新左翼の過激派集団による銀行襲撃や企業爆破である。  天王寺屋、平野屋、加島屋、鴻池屋、亀屋などの本両替商——これら富商らは天下の激動に眼をくばり、情報を収集し、銭勘定することよりもいまは、 「勤皇方を支援すべきか、幕府方に協力しておくべきか。いずれがのちのために有利か」  つねにそのことを胸のうちの天秤にかけて、ソロバンをはじいていなければならぬ。  長州、薩摩を主軸とする革新勢力が天下を支配し、政権を奪取しそうだということになれば、そちらに軍資金を献上してご機嫌をとっておくべきだし、三百年の歴史をもつ保守派の徳川幕府がくつがえることはないとなれば、革新派のシンパサイザーになったりするのは危険をまねく悲劇である。両替為替の商売はさせてもらえないばかりでなく、一族郎党の命さえも奪われる結果になりかねない。「天王寺屋はんはどっちにも味方せえへん、ゼニは鐚《びた》一文出さん……こないな腹づもりらしいでえ。恨まれまっせ」 「聞いたかや。京都の平野屋は口では幕府におべんちゃら言うとるけど、裏からこっそり勤皇方に軍資金をまわしとるそうや」  そうした情報も金融界には飛びかい、一喜一憂しては右往左往する毎日だった。  いくらでも軍資金がほしい幕府の、貸付御用金徴収もきびしくなるばかりだ。富商を金のなる木ぐらいに思っている。 〔スカウトされた中年男〕  三井組も悲鳴をあげざるを得なかった。政情不安のため金利が低下して利益率が減少するし、諸大名に貸付けている長期不良貸金は累増するし、資金繰りがますます苦しくなっていた。本店《ほんだな》と称する呉服業の三井呉服店(現在の三越)のほうも、戦争がいつ起きるかわからない状況では高級呉服などは売れない。インフレによる人件費高騰もあるので、延宝元年(一六七三)に八郎兵衛高利が創業して以来の大ピンチに瀕《ひん》していたのだ。  活路を打開すべく幕府に請願して横浜出店をオープンし、外国奉行所御金御用達の仕事をもらったものの、これが裏目に出て浮き貸しは焦げつき、洋銀相場に手を出しては大損するの結果となった。  慶応三年度の三井の全資産は九七万六七二六両になっていた、と『稿本三井家史料』には記録されている。そこへ新たに幕府よりの貸付御用金を賦課してきたのだ。  幕府はこうした上納金のことを「御国恩冥加」と称していた。ひどいもので、勝手にほしいだけの金額を自分たちでふんだくっておきながら「これは商人たちが、お国のためにお使いくださいと願い出て持参したのだから、受けとっているまでだ」としているのだ。  この「御国恩冥加」は、三井組だけでもたいへんな額にのぼっている。三井の記録にあるものを拾ってみると——  文化三年(一八〇六)の江戸大火のさいには七千両。  天保九年(一八三八)の江戸城西の丸火災のときには一万二千両。  天保十年には大阪三井店が一万両。  安政元年(一八五四)には国防費として五千両。十年年賦で上納。  その上納を完了した元治元年(一八六四)にはなんと百万両。  これは経営不振の歎願書を提出してご破算にしてもらったが、慶応元年五月には将軍家茂の上洛費用として一万両をむしりとられ、翌二年二月、徳川家のためなら何でもやる忠臣の小栗上野介が、改めて「長州征伐軍費」として百五十万両を課してきたのだった。  これも小栗のまえで畳に額をこすりつけて哀願し、なんとかご破算にしてもらったものの、二カ月後の四月には、 「五十万両、慶応四年までの三カ年間に分納すべし」  の再度の命令がきた。当主の高福をはじめ、大元方の高喜も大番頭たちも頭をかかえてしまった。前述のごとく、慶応三年度の三井の全資産が九七万六七二六両だから、これではもう「三井のごときが潰れてもかまわん」と言われているようなものである。  三井組には「救世主」が必要だった。  それに選ばれたのが、無学者で正体不明の卑しい「紀ノ利」だったのである。三井家としては氏素姓がどうのこうのと言っておれない。とにかく小栗上野介を懐柔してくれる人物ならだれでもよかったし、それ以外のことは何も期待していなかった。斎藤専蔵が高喜に紹介し、高喜が京都にいる高福に会わせたのだ。  利八は眉太く、眼光が鋭い、体躯もがっちりしているが頭の鉢も大きな中年男だった。こんな小商人が勘定奉行を籠絡《ろうらく》できるわけない、と高福は思いつつも依頼した。利八は高福の名代として小栗邸に参上、 「必ずや三井組は幕府のお役に立ちます。いま破産させてしまっては元も子もございますまい。長い目で見てやってくださいまし」  と陳情した。  利八が才気ある男だということは、雇仲間にしてやっていたころから認めていたので、小栗は納得した。「御用金五十万両のうち十八万両を分納すべし。残額は免除する」と文書にして改めた。  利八は成功したのである。ときに四十歳。 〔利左衛門の判断〕  この一件で利八は、高福の絶大なる信頼を得ることができたし、正式に三井組に迎えいれられた。  高福が三井の三の字をあたえ、「紀ノ国屋」の姓である美野川の野、亡父が木村と名のっていたその村をとって、これより三野村利左衛門と改めさせた。そして「通勤支配」という重役待遇の役職につけた。利八は感謝感激した。江戸町民は眼を白黒させた。  当時の老舗の本両替商では、十三歳にならなければ丁稚《でっち》小僧として雇用されず、十七歳になって丁稚頭、二十歳で手代、支配人見習になるにはさらに十年を要する。支配人になるにはまた三年かかり、店員としての最高の地位である別家支配人にしてもらうには、丁稚になってから通算二十年はかかる。その苦労は現代のホワイトカラーと変わらない。  それと比較してみても、氏素姓も経歴もさだかではない利八が、重役に抜擢されたことは破格の出世というほかはない。しかも「小栗をうまく籠絡するだけの役目」であり、三井組の経営そのものには関与させないつもりの利左衛門が、あっとおどろく才腕を発揮しはじめたのだった。  鴻池屋や天王寺屋ら富商たちと同様、三井組も勤皇派を支援すべきか、幕府方に協力するかの二者択一を迫られていた。が、天下の形勢はなお混沌として予断を許さぬ情勢にある。アメリカ一辺倒でいくか、親ソ外交を重視すべきかで苦悩する、現代日本の国情そっくりであった。  高福は両面作戦をとらせた。  江戸では利左衛門→小栗の線を確保しておいて幕府に密着させ、新撰組と勤皇志士が斬り合う京都では高福の子・高朗に、紀州藩の陸奥宗光を通じて薩摩藩の為替御用をひき受けさせた。高朗はひそかに大久保利通に軍資金をあたえたり、高福が西郷隆盛と密会したりしていた。隠密《おんみつ》さえも放って調べあげた。  三井はじつに老獪《ろうかい》であった。  小栗が外国商社を手本にして、商人たちの共同出資による株式組織の貿易商社を結成(慶応三年七月)させ、鴻池善右衛門や加賀屋久右衛門らに兵庫港開港資金の拠出を強要した。高福にも参加をもとめ、兵庫商社頭取になるよう要請した。にもかかわらず高福は馬耳東風、うまく態度を保留していた。  また、陸奥宗光が上洛した紀州藩主に会わせようとしても、高福は人目をはばかって伺候しない。勤皇派にべったり、と思われたくないのだ。「非礼ではないか!」と宗光が青すじを立てると高福は、「残念ながら病中でして」と、侍医の診断書を番頭にもたせてやる。  幕府の財政を憂慮する小栗は、フランス公使の援助をもとめて生産振興政策に力をそそぎ、軍需工業を発展させたり、江戸銀座金札という小判にかわる紙幣を発行したりした。利左衛門はそうした財政問題に、手となり足となって協力し、彼自身もまた多くのことを学びとった。 「利左衛門が拙者のそばを離れず、全面的に協力してくれているということは、それは三井組そのものの姿勢でもあるのだ。三井は幕府の味方だ、二心はない」  そのように小栗は、利左衛門イコール三井組であると信用していたのではあるまいか。だが慶応三年十一月に将軍慶喜が大政奉還を朝廷に上奏する、それ以前に三井は幕府を裏切っていたのだった。「徳川の時代はもはやこれまで」と判断して、京都・大阪では明治新政府支持になっていたのである。  それは利左衛門の判断であった。彼自身は二心なく小栗のために尽してはいたが「殿様は日本になくてはならぬ人材である。しかし、時代の流れには勝てない。殿様の才覚をもってしても、この急流を止めることは不可能だ」と見ていたのだった。  小栗は徳川家のためにこの大転換期をくい止めようとして奮迅《ふんじん》し、利左衛門は三井組のために、この大転換期をいかにして乗り越えるかで闘ってきたのだった。 〔三井のために何をなすべきか〕  利左衛門の曽孫に当る三野村清一郎は、労著『三野村利左衛門伝』(昭和四十四年刊)に、こう書いている。 ≪利左衛門は、これら一連の小栗の財政政策に参加し、その実行の中心に三井を据えて奮闘した。けれども、すでにその根底から揺らいでいた幕府には、小栗懸命の努力も効果なく、徳川三百年の政権は江戸から京都に移った。それにつれて、利左衛門の江戸における活躍舞台が消え去ったことは、また、三井における彼の任務の終結を意味するものでなければならなかった。当然、失脚の危機に陥ったはずであった。しかし、彼はツイていた≫  が、利左衛門はたんなるツキ男ではない。大転換期の仕事はむしろこれからだ、と思っていたはずである。  同じく三井組の大番頭になっていった益田孝が、いかにも利左衛門らしい一面を『益田孝翁伝』に書いている。 ≪大隈(重信)さんは、明治六年に井上(馨)さんが大蔵大輔(現在の大蔵次官)をやめてからずーっと大蔵省におられたから、私は商売上の用でときどき大隈さんのところへ行ったが、三野村を大いに信用して、三野村は偉い、感心だと言うておられた。三野村は木綿の着物に木綿の羽織、穢《きたな》い草履をはいて、どこの田舎の爺さんかと思われるようなふうをしておった。が、家に帰ると、絹の着物を着て、絹の座布団を敷く。深川に住んでおった。大きな身体であった。前歯が抜けて、大きな声であはははと言うて笑う。愉快な爺さんであった。三野村は大隈さんが留守だと、帰られるまで書生部屋へ入って待っていた。そして書生たちに、さあ阿弥陀くじをやろうと言うて、書生たちにも少しずつ銭を出させて菓子を買う。ときどき牛鍋なぞもご馳走する。なかなかうまいものであった≫  外出するときのほうが貧しい身なりになるのは、ぼろ布にダイヤモンドを包んでおくのと同じく、中身に自信があるからなのだ。  益田の言う「なかなかうまい」は、利左衛門がさりげなく書生たちとも仲よくして、政界や官界の情報をとっていたのを意味する。これからの自分は三井のために何をなすべきか……それを意識してのことである。 〔商社を生んだ「田舎の爺さん」〕  明治元年四月、官軍が江戸にはいってきてからの利左衛門は、西郷隆盛や大久保利通はむろんのこと、木戸孝允、大隈重信、井上馨などの革新派指導者らに接近するのをおのれの第一の仕事にした。そのために新政府発行の太政官札の流通と、国債の割当にも奔走している。  高喜が討幕資金調達を拝命したのは、勤皇派を支援してきた実績を買われてのことだと見ていい。権力者が徳川から天皇に替わっても、財界における三井の地位はゆるがなかったのだ。そして、多くの富商たちが没落していったかわりに、三菱、安田、藤田、大倉などの新興財閥があとを追ってくることになる。  太政官札については、官軍がまだ江戸に現われていない段階で、利左衛門がその流通をひき受けると断言していた。江戸から東日本にかけての民衆は、あくまで「徳川さま」を支援しており、天皇を尊敬してはいない。貨幣も小判をありがたがり、太政官札などという不換紙幣は馬鹿にしている。  そんな状況下にあって太政官札を「これからはこれが現金だ」と、たとえ天皇が言ったとしても信用しない。流通はストップし経済界は混乱する怖れがある。それでも利左衛門があえてひき受けたのは、新時代における三井の地位を、しょっぱなから不動のものにしておきたかったからなのだ。  その一方で利左衛門は、江戸の富商や金融家たちによびかけ、共同出資による株式組織の貿易商社の設立に尽力した。このアイデアはあきらかに小栗上野介の、兵庫商社のそれである。もしかすると彼は、はたしえなかった小栗の夢を、時代の流れを見きわめながら実現させてやりたかったのかもしれない。  外国事務局権判事と東京府判事が同意してくれたのでさっそく、高福を外国人貿易商社総頭取に就任させ、利左衛門がその設立事務をまかせてもらった。  この「東京貿易商社」は、外国人居留地になっていた築地鉄砲洲に建てられた。利左衛門はここに、これまでの三井御用所を移転させた。出資をしぶる富商に対しては、益田孝の言う「田舎の爺さん」であるのに彼は、東京府の役人をうごかした。薩長出身の役人が居丈高に「協力しない野郎は、家族もろとも北海道開拓を命ずるぞ」とやるものだから、だれもがふるえあがってしまった。たんに「東京貿易商社」を海外貿易の拠点にするだけでなく、企画力抜群の利左衛門は国内通商にも手をのばし、海運業にも着目した。いうなれば総合商社の原型である。 〔「古い人間は使いません」〕  西洋式銀行の原型である為替会社の新設にも情熱を傾注し、実現させた。株式会社であり、その営業資本は会社設立参加者の出資金、それに政府貸下げの太政官札、政府委託の官金である。  やはり利左衛門は高福を総頭取に据え、かつての本両替商だった島田組の八郎左衛門、小野組の善助なども加わった。社屋を兜町に設置したが、蛎殻《かきがら》町の旧銀座役所に移転させて開業。利左衛門が総差配司である。  彼らは明治九年三月に廃刀令が出るまで、武家と同じく帯刀を許されていた。銀行マンが腰に大小を差していたのだ。利左衛門も長いのを落とし差しにしていた。そのくせ、彼は三井組の店員たちに、チョンマゲをなくそうと運動している。 「こう業務が盛んになってきては、とても朝晩の鬢《びん》を撫でつける時間がもったいない。一同、髪を切ろうじゃないか」  言われてみんなは、たじたじになった。 「それならまず、重役のあなたが切って、模範を示されてはどうですか」  翌日、利左衛門はザンギリ頭になって出勤してきた。若い店員たちは決心したが、毛唐のまねは厭だとばかり、年輩の連中は頑固に応じない。新時代の風俗になじもうとしないのだ。  とたんに利左衛門の態度が変わった。 「切りたくない人はそれでもよろしい。ただし、明日から出勤しないでいい。三井は古い人間は使いません」  チョンマゲそのものに、彼はこだわっているのではない。企業の大転換期には社員一人ひとりの、意識からして百八十度の転換が必要であり、過去の江戸時代を忘れさせたいのであった。  一方で彼は、住み込み店員らには女遊びを奨励している。 「給金はぜんぶ女郎買いに注ぎ込め」と言うわけではない。向島の三囲《みめぐり》神社は三井家の守護神であるので、毎月一回は、店員たちに強制はしないが参詣させて、商売繁盛を祈願させていた。利左衛門はこれに眼をつけた。参詣簿にちゃんと署名してきたものに限り、向島からの帰りに吉原遊廓に登楼してよろしい、と公認したのだった。  そうなると、怠けていた店員も欠かさず参詣するようになった。利左衛門の狙いは三つあった。女遊びさせてストレスの解消をはかる。祈願させて愛社精神を植えつける。女郎との寝物語をさせて世相をキャッチする……一石三鳥である。 〔三井家を牛耳る〕  当主高福の全幅の信頼を得た利左衛門は、営業組織の再編成をやるべく三井家内部の家政改革にも着手した。禁裏《きんり》にひとしいところへ、成りあがり者がずかずか踏みこんだのだから世間は唖然となった。東京・横浜間の電信が開通した明治三年春のことである。  まずは呉服店大元方の改組であった。  大元方は直接の事業はやらない。諸店(支店)への貸付金は融通するが、対諸藩・官庁の事務はすべて御用所扱いにする。大元方の所持金は三井家の一員といえども、勝手に運用することを許さないというものであった。  つまり、御用所を全事業のカナメとして、利左衛門の三井家同族内における発言力は一気につよまったのだ。不満をもらす同族は高福におさえてもらった。  大元方執事に新任された彼は、さらに明治六年、三井家家政の改革をも断行した。これには同族たちの強固な反対に遭遇しなければならぬと見て、大蔵大輔の井上馨を操った。  同年四月十七日、東京店と横浜店の三井同族および重役十八名が井上の私邸に招集された。井上の口から「時代に即応する事業の伸展のため、三井家の家政改革の全権を、大元方執事の三野村に一任されるがよかろう」と言わせたのである。そして、高福をはじめとする一同に、家政委任状なるものに署名させた。井上にはだれも反対できない。  利左衛門は大元方総轄に就任した。三井家そのものを牛耳る実力者になったも同然であった。三井家の資金も財産も、彼の許可がなければ当主といえども動かせないのだ。  東京詰に当主の高福と、高喜・高朗を、京都詰に高保を、大阪詰に高弘を、神戸詰に高辰を、松阪詰に高潔を配した。政治の中心が京都から東京へ移行したのだから、利左衛門は三井本家も東京にもってきて、高福をピラミッドの頂点とする家政にしていったのだ。  いまや斎藤専蔵は大元方総轄次席で、利左衛門の配下にあった。翌七年にも大元方第二次改革をおこない、総轄に高福を据えて自分は高福代理の事務総轄にさがり、 「三井組の家産は三井組の有にして、三井氏にあらず、自今その分界を明にし、あえて私すべからず。主従ともにこの意を領し、各自勉励して益金のその身におよぶを勉むべし」  との「大元方規則章程」を公表した。  三井組の全資産は三井家同族だけのものではない。三井家と全従業員から成る三井組そのものの資産であるので、三井家の人びとも全従業員もこぞって事業を繁栄させれば、各自がいっそうの利益を得ることになるのだ、というわけである。  この一文が全従業員に、働くものの新たな意欲と夢をかき立てたことは述べるまでもない。また三井同族のなかに三井組の名を悪用したり、財産をみだりに浪費したりするものがあれば「速にこれを幽閉すべし」という一章もある。情け無用の掟である。  世間ではこのような利左衛門を、 「大坂城の外堀を埋めさせる徳川家康だ。ついには三井家そのものを乗っ取るつもりではないのか」  と疑っていた。しかし、この「総司令部」である大元方組織と家政を参考にして、やがて安田財閥が安田保善社を、三菱財閥が三菱合資を、住友財閥が住友合資を設立するようになるのだった。 〔日本最初の民間銀行〕  これで三井組は、大転換期の危機を乗り切ったわけではなかった。  明治新政府——井上馨と渋沢栄一が三井に対し、小野組との連合銀行を設立せよとすすめてきた。利左衛門は合意し、日本初の第一国立銀行が創業されたのは明治六年七月。頭取が高福と小野善助、副頭取に利左衛門と小野善右衛門が就任。資本金三百万円、海運橋兜町の三井組ハウスがその本店となった。  ところが、小野組が破綻した。  小野組自体の放漫経営がたたり、米相場での失敗、鉱山投資の思惑はずれなどがそれに重なったのである。負債総額が七百五十万円に対し、小野組の手持金はわずか七万円になっていた。この破綻が第一国立銀行経営にもひびき、三井もともに破産して沈まねばならなくなる。  破綻の徴候が現われはじめたとき、井上は利左衛門と渋沢にその事実を耳打ちしていた。こんなのと二人三脚経営をやらされてはたまらないと、三人はいそいで、三井組が預かっている金額と小野組のそれとを区分けしてしまって、累がおよばぬようにした。  こうして小野組は沈没したが、三井組は死地から脱することができた。ここでも政界官界に密着している利左衛門が、その才腕をいかんなく発揮したのだった。しかも、この機に彼は単独の、日本最初の民間銀行である三井バンク創業の構想実現に活動した。  その母体は為替会社であった。すでに三井一族の若い高景(のちの三井鉱山社長)、高棟(のちの三井合名社長)、高明(のちの三井物産社長)らを、銀行業を学ばせるためアメリカに留学させていた。  三井銀行にするための建物も、明治七年七月には完成させていた。ところは駿河町。その開館パーティーには東京府知事の大久保一翁(かつての外国奉行、坂本龍馬が尊敬していた)と、工部卿の伊藤博文を招いている。  創業は明治九年七月。資本金の二百万円は、半分の百万円を三井組大元方が、五十万円を三井同族九家が、残る五十万円を三井組使用人一同が出している。利左衛門が総長、事実上の頭取に就任したのだ。  開業式では利左衛門が、漢字が読めないので例によって振仮名をつけてもらっておいた祝辞を読みあげることになっていた。しかし残念ながら彼は、病床にあって列席できなかった。持病の胃ガンがひどくなる一方だったのである。 〔「忠僕」斃《たお》れる〕  銀行開業と並行して彼は、三井物産の創業にも奔走していた。  それが銀行開業と同時に実現した。  その母体になっているのは三井組国産方であった。これに「東京貿易商社」を併せ、退官した井上馨が造幣権頭を辞職した益田孝とともに経営していた先収会社も吸収したのだ。先収会社は米と石炭を買付け、それを横浜の外国商社を通じて輸出していた。  利左衛門は、三井物産の経営陣の人事に腐心して彼らしい人選をやっている。  その社主にはアメリカに留学させた総領家の七男の高尚と、六男家の三男坊の高明を選び、三井家の当主や嫡子ははずしてしまったのだ。そして、その二人の社主の下に社長として益田孝を据え、 「(三井銀行と)ともにその営業の永続隆盛を謀り、その悦をともにせんと欲するなり。然りといえども、該銀行においても営業上の大損耗を醸成し、あるいは非常の天災などに罹るより閉鎖することなきを保たす。依て別に一の会社を創設し、これを三井物産と号し、三井銀行とこの物産会社とは判然区画を別ち、独立永続せしめんとす(後略)」  との長文の約定書をとりかわした。  要するに、破産する万一の場合を憂慮して彼は、このように分離しておきたいのだ。三井家および三井銀行には、その尻拭いをさせたくないのである。三井の看板は貸すが、資金は出してやっていない。井上の顔を立てて益田を社長にしたが、彼は益田の力倆を評価していなかったのだろう。  これより半年後——利左衛門は西郷隆盛の西南戦争勃発の危機を案じながら、明治十年二月二十一日、胃ガンには勝てず不帰の人となった。自分の死期が迫りつつあるのを予知していて、がむしゃらに彼は三井銀行と三井物産の創業をいそいだかの観がある。五十七歳であった。高福が盛大なる葬儀をおこなった。 〔報恩を忘れぬ誠実さ〕 〈利左衛門に野心があったならば……〉  と、ぼくは空想してみる。彼はかんたんに三井家の資産と事業をわがものにすることができたであろう、そうすれば日本経済史上に特異のドラマが展開されただろうし、今日の三井グループは存在しなかったのではないか、と。  だが、そんな男ではなかった。恩人の小栗上野介忠順に対しても報恩を忘れていない。  話はもどるが——大政奉還後の小栗は、将軍慶喜に勤皇軍への徹底抗戦を主張するが、容れられなかったため勘定奉行を辞任し、上野国(群馬県)権田村にこもってしまう。しかし、慶応四年四月、勤皇軍と戦って四十二歳で斬殺された。  利左衛門は、江戸を発って権田村に帰り行く小栗と、最後の別れをしたとき、 「お殿様、しばらくアメリカに亡命なさってはいかがです? あなたは日本になくてはならぬ経済人でございます」  と涙をうかべてすすめ、亡命費用として千両箱を一つ置いてゆこうとした。 「好意には深謝する。けれどもわたしには思うところがある。田舎でいろいろ考えてみたいこともある。後年、妻子が困るようなことがあれば、よろしく頼む」  小栗もまた、この男の誠実さに、目頭を熱くしたのであった。チョンマゲ時代の当時、国外に亡命させることまで考えたりする利左衛門は、それだけでもナウい男だったと言える。  小栗が斬殺されてのち、苦労している彼の母堂の国子と妻の道子、それに幼い遺児たちを、利左衛門は深川の自宅にひきとった。そしてさらに、自分が胃ガンで他界したのちも明治二十年まで、三野村一族に面倒をみさせている。  三野村家に遺されている「元方目録勘定書」には、利左衛門の死後も総額にして一四五〇円四二銭六厘を小栗遺族に支出している、と記録されている。  三野村利左衛門は正体不明ながら、無学者ながら、まことに魅力のある不思議な人物だ。 [#改ページ]     伊藤|博文《ひろぶみ》 [#ここから5字下げ] 国際関係を熟知し「日露非戦論」で日本を勝利に導いた深謀遠慮の政治家 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ] 〔日露開戦必至の世論〕 「西郷どんがロシア軍を率いて攻めてくる」  日露開戦が時間の問題となってきたころから、西日本一帯にはこのうわさが蔓延していた。西郷隆盛は鹿児島で自刃してはいない。ひそかに城山から脱出してシベリアへ亡命、明治政府高官らを討ち西南の役(明治十年)の恨みをはらすべく、ロシアの精鋭を案内して日本に上陸するというのである。  このうわさが最初にひろまったのは明治二十四年——巡査津田三蔵が来日中のロシア皇太子(日露戦争時の皇帝ニコライ二世)の眉間をサーベルで一撃した「大津事件」の直後だ。激怒した大国ロシアが西郷隆盛に指揮をとらせて宣戦布告してくるのでは、と国民の多くは顫《ふる》えあがったのである。  そして、日露開戦必至となるとまたぞろ、この風説がよみがえってきたわけだが、シベリア鉄道を建設しながら東進してくるロシアは、日本人にとってはつねに憎たらしく、かくのごとき脅威をもたらす。現代のソ連の軍事力・政治力に対する日本人感情も、明治のこのころとさして変わっていない。  一方——「露助なにするものぞ」の、一寸の虫にもある五分の魂を見せたがる軍人たちもいた。右翼団体もこれに加わった。  なぜならば、日清戦争に勝って遼東半島、台湾を割譲させたが、ロシアが「支那分割」の野心があるフランスとドイツを盟友にして遼東半島の返還を強要——いわゆる「三国干渉」に戦勝宰相である伊藤博文があっさり服従したため、国民は激昂した。  さらには二年後、ロシア自身がこの半島を清国政府より強引に租借したので、陸軍大臣山県有朋が「軍備拡充意見書」を上奏し、「東洋の禍機は今後十年を出でずして破裂するものと想像せざるべからず。その時に及んで我邦の敵手たるべきものは支那にあらず朝鮮にあらずして、則ち英仏露の諸国なり」との国家的覚悟を促した。  その覚悟のときがいま、現実に迫ってきたのであり、「いまこそ露助を撃つべし!」の敵愾心《てきがいしん》をおさえかねているのだ。しかも『時事新報』を発行していた、日本近代思想の開拓者である福沢諭吉が、明治十八年当時にすでに社説の「脱亜論」のなかで、 「わが日本の国土はアジアの東辺にありといえども、その国民精神はすでにアジアの固陋《ころう》を脱して、西洋の文明に移りたり」  と述べるだけでなく、清国や韓国は隣人ではあるがこんな連中には「特別の会釈におよばず」との優越感をまる出しにして断言している。日清戦争に大勝したことによってこの福沢思想が、日本人の一人ひとりの胸中に芽ばえていったのも事実である。さらには——「外国との戦争は勝てば大儲けになる」のも明治人はこの戦役で初体験していた。  遼東半島は伊藤博文が「三国干渉」に屈したため、屈辱的返還を余儀なくされたものの、賠償金の二億テールがころがり込んできた。当時の日本金にして三億五千万円だ。  日本軍の全戦費は二億四七万円だったから、差引一億四九五三万円の高利益を計上できたことになり、戦死者が続出する損失など眼中になく、「今度また日露戦役に大勝すれば、必ずや巨額の賠償金をふんだくれるし、日清のとき以上の戦勝景気が到来するぞ」の胸算用を財界人たちはやっている。  同じように軍人も、大いにソロバンをはじいていた。山県有朋は差引一億四九五三万円のうちの五四〇三万円を、当然の権利として陸軍拡張費に当てた。平時の軍備維持費の九年分に相当する額であり、彼らもまた「今後の軍備拡張費はそのつど、軍事力によってかちとった賠償金に依存しよう」と、日露開戦を歓迎するのである。 〔兵は国の大事なり〕  ところが——  ただ一人、「明治の元勲」伊藤博文だけが開戦に反対したばかりでなく、むしろロシアとは協力路線を確立して仲よくやってゆくべきだ、と頑固に主張したのである。ただし彼は人道主義、平和主義の立場から非戦論派になったのではない。 「まぼろしの西郷」の逆襲におののいたわけでもなく、「我国にはまだ、ロシアを相手に戦うだけの経済力と軍事力が備わっていないし、信頼しうる最高指導者も存在しない」のを憂えて、慎重になっているのだった。  中国最古の兵書『孫子』十三篇の冒頭、「計篇」(開戦前によく熟慮すべきこと)にはこう述べられている。 「孫子はいう。戦争とは国家の大事である。〔国民の〕死活がきまるところで、〔国家の〕存亡のわかれ道であるから、よくよく熟慮せねばならぬ。それゆえ、五つの事がらではかり考え、〔七つの〕目算で比べあわせて、その場の実情を求めるのである。 〔五つの事というのは〕第一は道、第二は天、第三は地、第四は将、第五は法である。〔第一の〕道とは、人民たちが上《かみ》の人と同じ心になって、死生をともにして疑わないようにさせる〔政治の〕ことである。〔第二の〕天とは、陰陽や気温や時節〔などの自然界のめぐり〕のことである。〔第三の〕地とは、距離や険《けわ》しさや広さや高低〔などの土地の状況〕のことである。〔第四の〕将とは、才智や誠信や仁慈や勇敢や威厳〔といった将軍の人材〕のことである。〔第五の〕法とは、軍隊編成の法規や官職の治め方や、主軍の用度〔などの軍制〕のことである。  およそこれら五つの事は、将軍たる者はだれでも知っているが、それを深く理解している者は勝ち、深く理解していない者は勝てない。それゆえ〔深い理解を得た者は七つの〕目算で比べあわせてその場の実情を求めるのである。すなわち君主は〔敵と味方とで〕いずれが人心を得ているか、将軍は〔敵と味方とで〕いずれが有能であるか、自然界のめぐりと土地の状況とはいずれに有利であるか、法令はどちらが厳守されているか、軍隊はどちらが強いか、士卒はどちらがよく訓練されているか、賞罰はどちらが公明に行なわれているかということで、わたしは、これらのことによって、〔戦わずしてすでに〕勝敗を知るのである」(金谷治訳注『孫子』岩波文庫)  官僚、軍人、財界人は言うにおよばず国民の一人ひとりも、冷静になってこの「計篇」を頭にたたき込め。これこそ最古にして最新の兵書なのだ。国家対国家、人間対人間が戦う場合の基本なのだから……と国際関係に明知の政治家・外交家である伊藤は言いたいのである。欧米文化を吸収しながら廃藩置県を達成させ、憲法起草に尽力してきた彼だが、三隅勘五郎、僧恵運、吉田松陰の松下村塾に学んだ若き日の、この東洋の兵書の思想をバックボーンにしているのだった。 〔「恐露家」は臆病にあらず〕  名外交官といわれた小村寿太郎でさえ、伊藤博文を評してこう語っている。 「伊藤には一種の癖がある。一対一のときに話し合うと、難件でも納得させることができるのだが、その座にほかの客が居合わせた場合、伊藤はいろいろと理屈をならべて、小さな用件でもまとまらなくしてしまう。だから自分は、用談で伊藤を訪問するときには、邸前に馬車の一台でも待っているのを見ると、さっさと引き返して他日また訪問することにしたものだった」  第三者をまじえると伊藤が、恰好をつけたがっているかのごとく見ているが、そうした浅薄な見方しかせずして桂太郎内閣の外務大臣小村は、伊藤の日露協商をつぶすための日英同盟の実現に全力投球している。  長州藩時代からの後輩である桂太郎、児玉源太郎ら軍人は、伊藤の非戦論に対しては「ちぇっ、またか」と大仰に顔をしかめた。今回ばかりではない。攘夷の無謀を説き、長州藩士の「禁門の変」(文久三年)参加に反対したため尊皇攘夷派の憤激をまねいたり、英米仏蘭の四国連合艦隊と長州藩が、下関海峡で交戦した(文久四年)ときにも、弱冠二十二歳の伊藤が高杉晋作、井上馨を説得して講和条約を成立させるのに奔走している。  西郷隆盛の征韓論にも与《くみ》せず、日清戦争のさいも五十三歳の宰相伊藤は、列強の干渉がつよまるのを危倶して開戦には消極的だった。が、参謀総長の川上操六が独断で派兵したため、おし切られるかたちになったのであり、そのようにつねに弱腰の伊藤が、「長の陸軍」といわれるまでに全陸軍を牛耳っている山県、桂、児玉らにははがゆいのだ。  日露開戦必至の情勢になったのは、明治三十三年五月の「義和団事件」以来。この事件は祖国を食いものにする、欧米諸国および日本に対しての清国民衆の抵抗運動で、「扶清滅洋」の旗をかかげて北京在駐の各国公使館を焼き打ちにしたが、これ幸いと日本、イギリス、アメリカ、ドイツなど、八カ国が出兵して暴徒を鎮圧。ロシアもまた鎮圧を名目に満洲へ侵入、そのまま居すわりハルビン・旅順間の鉄道敷設権を得て東洋進出の野望をむき出しにした。これでは日本の生命線である韓国も、侵蝕されてゆく運命にある。  声を大にして伊藤が「満韓への侵略的政策を緩和させる日露協商」を提唱しはじめたのもこのときからであり、そのため彼は「恐露家」のレッテルを貼られた。小説家の久米正雄が、こう書いている。 「もちろん、彼は恐露病者であった。恐清病者であった。しかし、彼がロシアを恐れ、支那を恐れたのは、単純に彼が臆病者だったからではなかった。彼はロシアを恐れ、支那を恐れる前に、日本の国力の弱さを恐れたのだ。さらに戦争そのものを恐れたのだ」と。  今日の日本の総理大臣のように「不沈空母」だの「防衛力なくして平和は維持できず」などとは、伊藤は決して発言しない男だったのである。 〔孤立への道〕  この恐露家に対し、日英同盟案が桂太郎を中心に提起された。ロシアの東洋侵蝕に不機嫌な眼を向けているイギリスだから、日露開戦になった場合には「助っ人《と》になってもらえる」と見てのことである。  こうした状況下で「長の陸軍」が軍備拡充をいそぎ、薩摩出身の山本権兵衛、西郷従道らによって、「薩の海軍」も戦艦「三笠」などの建造をイギリスに依頼、強力な艦隊づくりに着手した。防衛力増強である。  伊藤への反応はまず、駐日ロシア公使イズウォルスキーの日露協商案歓迎、駐露日本公使西徳二郎の日英同盟案支持、というかたちであらわれた。英植民地相チェンバレンが、伊藤に対して不快を表明、外相ランスダウンは日英が恒久的に協力し合うべきだと言明した。それでも伊藤は明治三十四年八月、葉山の別邸で桂太郎に「元首の意見」を求められたときも、真っ向からイギリスを疑ってかかっている。 「英国の外相がかくのごとく申し出たるは、英国自体が勢力において欠けるところがあるため、日本と共同戦線を張らんとしているのだ。きみにはそれがわからんのか」 「いいえ、英国がもし当方の請求に応ずれば、さっそく同盟を実現させましょう。彼がわれの要求を容れざるも元々です。決して日本に不利ならずです」  と桂は承服しないばかりか、帰京して総理官邸に山県有朋、井上馨、西郷従道、松方正義、大山巌らを招集して味方につけた。とくに山県の所見は桂のそれと一致し、こうして伊藤は長州閥からも孤立するのである。  政友会総裁である六十歳の伊藤は翌九月、創学二百年を記念するエール大学より名誉法学博士の称号を贈られることになり、これを機にアメリカからヨーロッパを周遊するという。桂が私邸で壮行の宴を催し、山県と井上が陪席した。彼ら三人にとって、この外遊は天恵のようなものだ。邪魔者の留守中、一気に日英同盟調印へもってゆけるからである。  ところが上機嫌の伊藤が「このさいロシアヘも行って日露協定交渉をすすめるつもりでいる」と告げた。桂と井上は唖然となり、愕然となった山県が正座しなおして直言した。 「日英同盟は、極東全局の利益にかんがみ、清韓両国の保全を主眼として議をすすめているのである。露国との重大な国際案件を、独断専行でやられては困る。露国の意向はいちいち日本政府に報告せられ、政府の決裁を待つべきである」  ロシアと友好関係を結ばれては軍部の出る幕がなくなる……山県の本音はそれであり、伊藤が撫然となって盃を置いたので、宴はすっかり白けてしまった。山県は松下村塾のころからの同志だが、伊藤を政敵にしているのだ。 〔日英同盟か日露協商か〕  同年十一月、これより露都ペテルブルグに向かうべく、伊藤はパリにきていた。ロンドンにおいて林董《はやしただす》公使担当の日英同盟交渉が、かなりなところまで進捗していた。林に訓令しているのは外相の小村寿太郎。進捗の情報を入手した伊藤は、桂に電報を打った。 「露都にいたり意見を交換するまでは、政府において、最終の断案を猶予ありたし」  と懇請したのだが、桂からの返電は、 「英国に対する回答は遷延を許さないので、すみやかに露都に向かわれんことを乞う」  と素気ない。つまり、日英同盟調印が先か、日露協商締結が先か、一刻を争う桂と伊藤の負けられぬ競争になったのである。  伊藤にとって唯一の救いは、井上馨が味方についてくれたことだ。二度も打電してきて井上は「英国の同盟修正案に、日本政府が同意しかねている。同盟調印には至るまい」との私見を伝えた。伊藤は愁眉をひらいた。  十二月はじめ、冬景色のペテルブルグにおいて外相ラムスドルフと会談、皇帝ニコライ二世からも歓迎されて伊藤は、 「朝鮮のことはいっさい日本の自由行動にまかせ、商工業はもちろん、政治上においても軍事上においても日本のなすがままとし、万一内乱が起こったなら、日本みずから兵力を入れて鎮圧することを承認してもらいたい。このほかの方法では、遺憾ながら日露の親和は望まれないでしょう。そのかわり満洲はロシアが自由になさって結構です」  と申し入れた。それとなく日英同盟案を、切り札として活用している。日露の親和が望まれないとなれば、わたしとしても日英同盟に賛成するしかない、というわけだ。 「この返事はベルリンに滞在中の貴兄に、電報でお伝えいたします」  蔵相ウイッテが約束した。 〔イギリスと提携するは早計なり〕 「われ交渉に成功せり」  そう確信した伊藤博文が意気揚々、露都を発ってベルリンへ向かっているそのころ、葉山の長雲閣において元老会議の結果が出た。出席していたのは桂、山県、西郷、井上、大山、松方の諸元老と小村外相、山本権兵衛海相。明治三十四年十二月七日のことである。  小村の意見書にある日英同盟の利害、日露協商の得失が比較検討された。世論についても討議された。伊藤に味方していたはずの井上さえも「衆議に同意する」と表明したため、日英同盟案に満場一致で賛成するかたちとなり、全員で祝盃をあげた。  そうとは知らぬ伊藤の、ベルリン発信の電報を、桂が手にしたのは翌日のこと。 「露国の模様は、充分わが希望を入れさせる見込みがあるのに、今これをかえりみずに、直ちに英国と提携するはすこぶる早計なり」  との内容だったが、昨日の元老会議で決定したのだからすでに時おそし。その電文を無視して十二月十日には、桂は明治天皇の聖断を仰いだ。却下されなかった。  伊藤のロシア旅行には、イギリスもたいそう神経を立てていた。もし日本政府がロシア皇帝と握手する結果になれば、そのときはドイツとともに日本に、ゲンコツをくらわせてやるという態度であった。  それでも伊藤は姿勢を改めない。何がなんでも日英同盟案に反対したいのではなく、彼には老獪な大国イギリスが信用できないのだ。その理由は桂にも口酸っぱく言ったように、 「古来の外交政策を一変して我と結ばんとする意志が了解しがたい。第二には、イギリスがこの挙に出るのは、何か大きな困却事があって、我を利用して難境をまぬがれようとしているのかもしれない」  この疑念がはれないし、日露開戦になってもイギリスが軍事面での支援をしてくれるとは期待できないからである。これは今日の日ソ関係に相似している。もし日本の自衛隊が対ソ戦争を起こした場合、安保条約があるとはいえ、アメリカが本気で自衛隊を支援するかどうか。  伊藤が看破したとおり、イギリスの極東海軍力は、増強しているロシアのそれより劣勢になりつつあり、ロシアと盟友のフランスもまた建艦計画を着実に実行しているとあっては、海運王国イギリスといえども、日本の海軍力をあてにする必要に迫られていたのだった。  これも現代の米ソの、極東における海軍力の逆転にそっくりである。第七艦隊だけではソ連の極東海軍力に勝てない情勢になってきているいま、日本の自衛隊の増強による防衛分担を要請してやまぬアメリカの真意は、そこにあるのだから。日本の総理大臣の、ワシントンにおける「不沈空母」発言がクレムリンを激怒させたが、これこそソ連側から見れば現代の「日英同盟」なのだ。 〔開戦前に時を稼げ〕  それはともかく——要するに伊藤博文は列強の軍事力や国内事情を分析し、『孫子』のいう「五つの事」が十全でない日本を反省し、それが十全になるまでの、対露のための時間かせぎを慎重にやっているのだった。  しかし翌三十五年一月三十日、日英同盟協約はロンドンにおいて調印された。これによって日本は、武力でもってロシアに敵対する態度を世界にむかって宣言したことになり、伊藤とすればそれは、憂慮すべき「あまりにも性急すぎる」行為だった。  駐日ロシア陸軍武官のワンノフスキー大佐は何を根拠にしてか、本国に対して「日本陸軍がヨーロッパの列強なみになるまでは、あと百年かかる」と報告している。また神戸沖でおこなわれた日本海軍の、観艦式(明治三十六年四月)を参観したロシアの巡洋艦アスコルド号艦長のグランマッチコフ大佐は「日本海軍の物質的部分は至れり尽くせりであるが、艦の操縦は将卒ともに合格かどうか疑わしい」との感想を洩らしている。  彼ら軍事専門家は「日本陸海軍は世界最弱なり」と判断したわけだが、このアスコルド号で来日した陸軍大臣クロパトキンは、伊藤博文、桂首相、寺内正毅陸相らとも会談しており、のちに回顧録にこう述べている。 「予は日本において、もっとも鄭重親切な待遇を受く。予は、日本政府は露国との衝突を避くるの希望を有するを知り、露国は満洲にて既定の約束を完全に履行し、かつ日韓間のことに干渉するを避くる要を痛感せり」  日本をやっつけるのは赤児の腕をねじるも同然だが、彼らの立場を理解してやるべきである……そういう心境にクロパトキンはなっていたのだ。大いなる唯一の理解者だが、伊藤は伊藤で、彼をこう見ていた。 「雌雄を決すべき時いたれば、この男が最高司令官としてロシア全軍を指揮するだろう。わがほうは児玉源太郎をおいてない。クロパトキンと児玉……両雄のいずれが〈七つの目算〉をより理解しているかに、勝敗の行方がかかっている」と。  日本の立場にクロパトキンは同情してくれているものの、ロシア皇帝はそうではない。列強に対して満洲よりの撤兵を約束しておきながら、その兵力を韓国国境に集結させつつあり、鴨緑江企業という木材会社を創業させようとしている。軍用食品を量産させている。そうした諜報が、満洲の野に放っている日本陸軍の軍事探偵によってもたらされた。 〔軍刀はつねに胸中に〕  日英同盟派に敗れはしたが、伊藤は挫折してはいかなった。「山県はつねに腰に軍刀をさげているが、わたしの軍刀はつねに胸中にある。ここまでくれば開戦やむなし」としながらも、なおも時間かせぎに努力した。そのためには日露の代表を一つのテーブルにつかせる必要があり、五条の項目から成る「満韓交換案」を提示したのだ。  ロシア側の代表となった駐日公使ローゼンと、日本側全権委員の小村寿太郎が、東京において交渉をくり返した。ロシア側もまた時間かせぎをやっているのである。  明治三十六年八月からはじまったこれは、おたがいに自国に利益をもたらす修正案を出し合い、半年間もつづけられたが歩み寄りはみられなかった。三十七年二月四日、日本政府は交渉を打ち切らせ、二日後の六日に小村は、国交断絶を通告せざるを得なかった。  この半年間、伊藤は国民の批判の声をあびせられっぱなしになっていた。優柔不断をなじる新聞もあった。右翼グループが「対露同志会」を結成、伊藤暗殺をくわだてた。のちに金子堅太郎が「開戦論者らが築地の料亭田中家において、伊藤暗殺を謀議した事実がある」と語っているくらいだ。  片や、非戦論者である幸徳秋水は『平民新聞』を主宰して論陣を張り、堺利彦や木下尚江らが街頭へ出ていって反戦演説をおこなった。だれもが勝手放題のことを言い合う、国論不統一の毎日なのだ。  戦争か平和か。株式界は予測できぬまま売るに売れず、買うに買えずの市況で「不況の極点に達し、売買高のごときは一日一千株ないし二千株内外にとどまることしばしば」の落ち込みようであった。  意外や意外、陸海軍も意気消沈していた。陸軍参謀本部総務部長の井口省吾少将が日誌に、慨歎してこう綴っている。 「大山巌参謀総長また戦意なく、これに加えて陸軍協和を欠き、陸軍大臣なかんずく山本権兵衛海軍大臣、海軍あるを知りて国家あるを知らず、機を見るの明なく、戦いを決するの断なし。帝国の大事まさに去らんとす。天なんぞ露国に幸するの甚だしき。予は天の日本帝国を滅さんとするの兆《きざし》あるを信ぜんとす」 〔勝利への根回し〕  日本政府が対露交渉を断念した二月四日の夕刻、伊藤博文は、憲法起草者で貴族院議員の金子堅太郎を官邸に呼んだ。 「いましがた決定した。いよいよ開戦だ」  と告げて、さっそくアメリカへ行き、ルーズベルト大統領にロシアを支援せぬよう懇請してほしい、講和問題が起こった場合の仲裁役を頼んでもらいたい、と申し渡した。  この特使任命を、金子は辞退した。  ハーバード大学に学び、学友だったルーズベルトとは親密にしているが、自分には任務が重すぎる、と思ったからである。まだ現実には砲火をまじえていないのに伊藤が、はやくも講和にもち込む時機を狙っており、アメリカ大統領に仲裁の労をとってくれるよう約束させよというのだから、あまりの慎重居士ぶりに金子は面くらったのでもある。  すると伊藤は、悲痛な声でつづけた。 「露軍が大挙、九州海岸に来襲するならば、みずから卒伍に列し、武器をとって奮闘するだろう。軍人が全滅しても博文は、一歩も敵を国内に入れない覚悟である。兵はみな死に、艦はみな沈むかもしれん」 「…………?」  金子は、自分の耳を疑った。  恐露病者、優柔不断の元老とみなされてきた伊藤に、そうした覚悟があったとは、愕き以外の何物でもなかったのだ。  伊藤とすれば、『孫子』のいう第一の「道」をつくりたかったのであり、その気魄におされて金子は渡米を決意した。しかし兵力の実態を知っておかねばと思ってまず、官邸を出て参謀本部に総参謀長に就任していた児玉源太郎を訪ねた。児玉ははりきっているが、 「いまのところは五分五分だから、私はこれを四分六分にしようと苦心している。そこで五度は勝報、五度は敗報の電報を受けとる覚悟でいてくれ。うまくいけば、勝敗の報六と四の割合になろう」  と勝算はまことに頼りない。  さらに金子が海軍省へまわると、 「日本の軍艦は、半分は沈没させる覚悟だ。それでも勝利を得ようと良策を案じている」。  山本権兵衛にも、自信はなさそうだった。これなら自分も「十度のうち、五度は赤恥をかく覚悟で渡米するしかない」と金子は思う。  日本政府は当初、戦争は一年で終わる、終わらせなければと想定し、軍事費は五億円前後とみていた。明治三十六年度の国民所得は二十六億円であり、 「四億円は用意できるが、あとの一億円は外国より借金するほかはない」  そう考えて外債に依存するつもりだった。 〔講和は今日か、また明日か〕  この日本外債募集を成功させるため、金子につづき日銀副総裁の高橋是清が渡米し、さらにイギリスへ向かった。これに失敗すればまず軍資金が欠乏するのだ。補充兵器が購入できなくなってしまう。  現地での高橋の努力は実った、というよりもユダヤ人が小国日本の、開闢《かいびゃく》以来のこの危機を救ってくれたのである。ニューヨークのターン・ロープ証券会社はユダヤ系アメリカ人によって経営され、彼らはユダヤ人迫害をやめぬ帝政ロシアを憎悪するあまり、日本に勝たせてやりたくなったのだ。  おかげで、ニューヨークとロンドンにおいて五百万ポンドずつ、計一千万ポンド、日本金にして九七六三万円の外債の成立をみた。高橋からのその報に接した伊藤と桂は、子供のように感泣した。  日本外債は三十八年七月までに四回発行され、合計七億円の実収額を得ることができたが、これは、当初想定した五億円を三倍以上も上回る一五億二三〇〇万円を必要とした軍事費のうちの、約半分に達したことになる。裏返して言えば、これほど予想外の巨額になってしまったということは、ロシア軍の攻撃がいかにはげしかったかを物語っているのだ。  余談になるが、日本がユダヤ人に助けられた歴史は、昭和三十年代になってからもある。  そのころからアメリカでは、世界一だったドイツ製カメラのライカを追い抜いて、日本製カメラ——キャノンやミノルタなどが驚異的な売れ行きを示してシェアをひろげ、その王座をうばいとった。昭和三十七年二月、宇宙飛行士グレン中佐が人工衛星船フレンドシップ号に積んでいったカメラが、ミノルタ・ハイマチックであったのもその証左である。  驚異的に売れはじめた理由は、日本製のそれらが、ライカを凌駕《りょうが》するほどの優秀な性能を備えていたからではない。セールスがうまかったためでもない。第二次世界大戦中にヒトラーの命令によってヨーロッパから追放されたユダヤ人が、アメリカへ逃げてその多くは、あちこちの都市でカメラ機材店を開いて生計を立てていた。有名な写真雑誌『ライフ』を創刊したのもユダヤ人である。  戦後になってライカは再びアメリカヘも大量輸出されたが、ナチスを憎みつづけるユダヤ人のカメラ店主たちの、「ドイツよりもまだ日本のほうが憎めない。ライカがドイツ製というだけでも、胸がむかむかしてくる。売ってやるもんか」の感情が、客であるアメリカ市民に対し、後発ながら日本製品のほうが優秀ですよ、と宣伝しすすめてくれたおかげなのだ。  帝政ロシアに勝たせたくなかった心情もそれと同じ。ユダヤ人を差別する国や民族は、いずれどこかで歴史的な報復をうける運命にあるようだ。  開戦になってからの伊藤博文は毎朝、 「今日か、明日か」  と、目覚めと同時に自分と問答した。  金子特使が愕然となったごとく、なにしろ開戦になってもいないのにはやくも、終戦和議の時機について熟慮していた伊藤だ。講和斡旋を今日にも依頼するか、明日にもその決断をするべきかと思いめぐらしているのだった。 〔天佑神助《てんゆうしんじょ》のタイミング〕  主戦場が満洲である日露戦争は、『孫子』のいう第二の「天」、第三の「地」を活かしていかに優勢になり得たとしても、所詮は「敵手ノ死命ヲ制スルコト能ハザル」局地戦のくり返しにすぎない。シベリアからさらにヨーロッパへ怒濤のごとく攻め入り、露都を占領しないことには、ロシアの死命を制したことにならないからである。  だから伊藤博文は、想定した一年以内に戦局を有利にした時点で、クロパトキンと児玉源太郎に握手させたいのだ。開戦から半年後、多大の犠牲を払いながらの遼陽、沙河の二大会戦に辛うじて勝ち、ようやく難攻不落の旅順要塞危うしの段階にきて、まずフランスが講和斡旋にうごき出した。  だがバルチック艦隊を東航させる作戦があり、満洲にもまだ兵力を増強させ得る余裕もあったロシアが、これには応じようともしなかった。日本としても、かつての「三国干渉」の一員であるフランスに恩を売られたくはなく、この斡旋は不調に終わった。  旅順が陥落した三十八年一月になって、金子堅太郎にイエスの回答をあたえていたルーズベルト大統領が約束どおり、フランスとドイツを通じて講和勧告をおこなった。それでもロシア皇帝は応じない。なお満洲に三十万のコサック兵団を温存中のクロパトキンは、形勢を逆転させる自信がある。すでに日本軍の兵器弾薬が尽きており、国民生活が窮乏の極にある事実を知っていたからにほかならない。  結局、講和は三十八年五月の、日本海海戦後まで待たねばならなかった。  東郷平八郎の率いる連合艦隊が、世界の予想を裏切ってバルチック艦隊を撃破する奇跡の大勝利をおさめた。まさにそれは天佑以外の何物でもない。その直後の五月三十一日、小村外相が駐米公使高平小五郎に改めて、アメリカ大統領に和議斡旋を要請するよう訓令を発したのだ。  しかし、クロパトキンは屈しない。事実、戦闘が続行されていれば、満洲の荒野にいる四十万の日本陸軍は全滅させられたはずである。ロシア皇帝が和議に応じたのは、あくまでも国内事情による。三十八年一月十六日にペテルブルグのプチロフ工場で、労働者のストライキが強行された——これを発端としてロシア民衆の永年の不満が爆発。「血の日曜日事件」なる血みどろの弾圧事件に発展、ついに革命騒ぎにまでなったためである。これまた日本にとっては幸運というほかはない。もし伊藤が頑固に日露協商を主張してブレーキをかけなければ、日露戦争はもっとはやく、明治三十五年ごろには勃発していただろう。その場合、かくのごとき天佑や幸運には恵まれなかったにちがいない。 〔真の手腕は早期講和に〕  交戦国がおたがいに和議にもち込む、そのタイミングをとらえるのも、じつに至難の業である。そのことを日本は日露戦争で充分に会得したはずなのに、日中戦争においても太平洋戦争においても、愚かにもチャンスを逸してしまった。  日中戦争が勃発(昭和十二年)して四カ月目、ドイツ駐華大使トラウトマンが蒋介石を説得、いわゆる「トラウトマン和平工作」に奔走するが、松井|石根《いわね》の率いる日本軍は無視し、南京を攻略して大虐殺事件を起こしてしまう。また太平洋戦争がはじまってまもなく、シンガポール要塞を占領した時点で、対英講和問題がもちあがったが、これは盟友ヒトラーの反対で実現しなかった。  東南アジアにおける戦局が不利になっていた昭和十八年九月、来日した南京政府主席の汪兆銘が、要人を介して宰相東条英機に、 「香港を中国側へ返還してください。これが実現すれば蒋介石と和合し、日中戦争を終わらせる自信があります。そうすれば中国に派遣している大量の日本軍を南方戦線に投入し、戦局を挽回できるではありませんか」  と誠意をもって提案したが、 「皇軍が敵地を占領するのは、かしこくも天皇陛下の御威光であり、八紘一宇の精神である。それを無条件に返還しろとは、天皇に対する不忠であるぞ。反国家主義だぞ。それならば日清日露の戦争この方、日本が領有してきた朝鮮、台湾、樺太、みんな返還しなければならんではないか!」  と一蹴されてしまっている。  伊藤博文のように「今日か、明日か」と一日もはやい早期講和成立のために尽力する、真に勇気ある戦争指導者が、その後の日本には一人として育たなかったのだ。日本はじつに不幸であった。愚かものであった。  ポーツマスで開催されることになった日露講和会議を応諾させた伊藤には、「三国干渉」に服従したときと同様、国民の罵声があびせられた。「勝っている戦争をなぜやめる。露助を徹底的に痛めつけるチャンスだぞ!」という。全国民が老いも若きも、女や子供までも有頂天になっているなかで、伊藤だけは冷静であり孤独だった。  日本側の講和全権委員として、桂首相が伊藤を推薦した。親露派だから条約締結もスムーズにゆくだろうと考えてのことだが、即座に伊藤は謝絶し、その理由をこう述べた。 「播いたものは刈りとらねばならぬ。日清の役には自分が首相であったので、これが収拾には自分が当たった。このたびは桂こそ自分で収拾に当たるのが順当である」と。  あくまで桂太郎を主役の座にすわらせてやりたいのであり、桂は小村を全権委員に指名した。伊藤はその小村に、 「ロシアに対する賠償金要求は、放棄しろ」  と指示している。賠償金を出せ、出さぬでこじれては講和決裂となる、再び銃を取らねばならぬ……それを案じてのことであり、そして小村の肩をたたいてこうも激励している。 「賠償がゼロでは軍人も国民も激怒するだろう。しかし、博文だけはきみの帰国を、よろこんで出迎えるよ」 〔戦勝国の傲《おご》りをいましめる〕  ところが講和条約調印(明治三十八年九月)後に伊藤は、山県有朋、桂太郎、西園寺公望、寺内正毅、林董、山本権兵衛、児玉源太郎ら十三人の元老や大臣らを招集し、満洲における軍政民政の横暴ぶりを、白いあごひげをふるわせながら叱責した。 「予の見るところによると、児玉総参謀長らは、満洲における日本の地位を、根本的に誤解しておられるようである。満洲方面における日本の権利は、講和条約によって露国から譲りうけたもの、即ち遼東半島租借地と鉄道のほかには何物もないのである。  満洲経営という言葉は、戦争中から我国人の口にしていたところで、今日では官吏はもちろん、商人などでもしきりに満洲経営を説くけれども、満洲は決して我国の属地ではない。純然たる清国領土の一部である。  属地でもない場所にわが主権のおこなわれる道理はないし、したがって拓務省のようなものを新設して、事務を取扱わしむる必要もない。満洲行政の責任はよろしく、これを清国政府に負担せしめねばならぬ」  はやくも日本人が戦勝国の傲《おご》りを見せ、中国大陸侵略の野望を抱きはじめているのが、伊藤には正視できないのだ。この傲りが次の戦争の引き金になるのをいましめているのであり、「計篇」にいう第四の「将」、第五の「法」を深く理解せよと促しているのだった。十三人には反論できなかった。  児玉源太郎は理解しなかった。後藤新平を満鉄初代総裁にしての、その満鉄を拠点にしての、満洲経営を着々と実現させてゆき、日本を不幸にする新たな「芽」を育てた。